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最近は機械学習、いわゆるAIの技術が進歩している。大量のデータを処理し、人間が気づかない物事の関係性に気づいたり、人間の代わりに判断ができると言われている。
たとえば、AIに犬と猫の画像を大量に見せると、自然に犬と猫の区別ができるようになる。AIは、犬の特徴と猫の特徴を自分で見つけ出し、それを判断の根拠としているのである。
これは、人間の子供とどう違うのだろうか。人間の子供も、自分で犬と猫の違いを見分けられるようになる。そして、たとえば初めてトカゲを見たときに、これはなに、と親に尋ねる。おそらくこのあたりに、AIと人間の違いがある。
犬と猫の画像をAIに見せるときには、あらかじめ画像にタグを付けておかねばならない。これは犬、これは猫、と人間が判断した後で、その画像をAIに見せるのである。
しかし人間の子供は、自分から、犬と猫が違う存在であることを見抜く。それらの見分けがついているからこそ、名前を尋ねることができるし、名前を付けることができる。
果たしてAIは、ものの名前を尋ねることができるだろうか。AIは、ものに名前を付けることができるだろうか。
これは、そもそも我々はどうして種を見分けられるのか、という問題を理解する手掛かりになるだろう。それぞれの猫はよく見れば同一ではないが、我々はそれを、同一の種の異なった個体である、と明確に認識している。
いったいその認識は、どこから来たものなのか。AIにも、我々と同じように種が認識できるのだろうか。それとも種の存在は、まぼろしに過ぎないのだろうか。
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三段論法は次の三つの要素で成り立っている。
大前提・・・人間は死ぬものである。
小前提・・・ソクラテスは人間である。
結論・・・ソクラテスは死ぬものである。
ここで、大前提と小前提から結論を導く推論を演繹、ディダクションと呼ぶ。そして、小前提と結論から大前提を導く推論を帰納、インダクションと呼ぶ。最後に、大前提と結論から小前提を導く推論を、アブダクションと呼ぶ。
アブダクションは種の認識を意味している。それは、個物から抽象への飛躍である。
ソクラテスが存在する、ということの意味は明確である。それは、彼が死んでいない、ということである。では、人間が存在する、とはどういう意味だろうか。それはどこに存在するのだろうか。
端的な意味では、人間は存在しない。それぞれの個人は存在するが、人間という種が、この宇宙のどこかに実体を持って存在するわけではない。しかし、我々は人間という言葉を使うし、その意味も明確に理解している。ここに謎がある、と、哲学者は考えた。
この問題はある意味で、哲学の起源である。計算機科学は哲学の一種なのかもしれない。
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推論の三種類について、もう少し説明しよう。
演繹
演繹については、詳しく説明する必要はないと思う。
ここでは、二種類の演繹があることに注意を促しておきたい。一つ目は理論的なものであり、先に示した例がこれに当たる。二つ目は実践的であり、実際の行動に関するものである。
たとえばあなたが、砂糖は人体にとって有害である、と考えていたとしよう。そして、いま飲もうとしている紅茶のペットボトルに、砂糖が含まれていることに気付いたとしよう。ここで、あなたは次のような推論を行う。
「砂糖は有害である。しかるに、この紅茶には砂糖が含まれている。ゆえに、私はこれを飲むべきではない」
そこで、あなたは別の飲み物を取りに行く。これが実践的三段論法である。つまり、人間は、自分の行動を三段論法によって決定している。これがアリストテレス論理学の本質である。
帰納
次に帰納について考えてみよう。帰納は数多くの例を集めることで可能となる。たとえば一つ目の例として、
ソクラテスは人間である。
ソクラテスは死んだ。
ということが分かったとしよう。次に二つ目の例として、
プラトンは人間である。
プラトンは死んだ。
さらに三つ目の例として、
アリストテレスは人間である。
アリストテレスは死んだ。
ということが分かり、また四つ目、五つ目の例も集められたとしよう。そうするとここから、人間は死ぬものである、という命題を推論することが許される。これが帰納である。
アブダクション
最後にアブダクションを解説しよう。アブダクションとは、いくつかのヒントから答えを導く推論であり、簡単に言えばなぞなぞである。
たとえば一つ目のヒントは、
ソクラテスは死ぬものである。
二つ目のヒントは、
ソクラテスは二本足である。
三つ目のヒントは、
ソクラテスには羽がない。
だとしよう。まず一つ目のヒントから、ソクラテスは生き物だということが分かる。しかし、たとえば鶏も犬も死ぬものなので、まだソクラテスが人間であるとは断定できない。次に二つ目のヒントから、犬は除外される。ソクラテスは鳥か人間である。さらに三つ目のヒントによって、鳥は除外され、ソクラテスが人間であることが分かる。
これがアブダクションである。アブダクションを行うためには、人間とは何であるか、ということをあらかじめ知っておかねばならない。
人間がものを認識する働きを、一種の推論過程として定義したものがアブダクションである。たとえば我々は、五月の生垣に咲くピンク色の花を見たとき、これはツツジだ、と思う。なぜかといえば、その花の色や花びらやおしべの数などによって、それがツツジだと分かるのである。
それを言葉として表現しなくとも、我々の心は、そのような特徴をとらえてアブダクションを行い、それが何であるか、という答えを導いている。我々がものを認識できるのは、アブダクションの能力が生まれつき備わっているからである。これがパースの記号論である。
(2020/5/23追記)