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法治主義とは、法によって社会秩序を実現できる、という思想であり、より積極的には、法によってのみそれが可能だ、という思想である。しかしながら法の力には限界がある。なぜならば、「嘘をついてはいけない」という法律を作ることはできないからである。
法律は、すべての人間が正直であることを前提としている。というのも、法廷において嘘をつく人間がいない、という前提がないと、裁判という行為が成り立たないからである。そして裁判が信用できないとなると、法律が存在する意味がなくなってしまう。ゆえに、すべての人間は法廷において嘘をつかない、という前提の下に、すべての法体系は成立している。
したがって、「嘘をついてはいけない」ということは、法治主義の前提となっているので、これを明文化することはできない。もしも誰かが「嘘をついてはいけない」という法律を作ったならば、彼は、嘘をつく人間がいる可能性を認めることになってしまう。だがそれは、裁判が究極的には信用できないものであると宣言するに等しい。そのとき彼は法治主義そのものを否定することになる。
ある人が法治主義を信じるならば、彼は、嘘つきを禁じる法を作ることができない。ここに法治主義の限界がある。なぜならば、嘘をつくことは悪いことであり、社会秩序を乱すことだからである。ゆえに、法によって嘘つきを取り締まることができないのであれば、法の力で社会秩序を実現することはできない。したがって、法治主義は誤りである。
実際のところ、社会秩序を実現しているのは市民の意志の力である。市民一人ひとりが悪を許さず、正義を守ろうとする心を持っているから、社会正義が実現されているのであり、法律はその補助でしかない。法の力だけで正義が実現されているわけではない。
本当に大切なのは人間の意志である。正しい意志を持った人間を育むことである。
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また、いわゆるダブルスタンダードは、法治主義の自然な帰結である。嘘をつくという行為は、法治主義の下では例外的な扱いを受けている。それは禁じられてはいないが、許されているわけでもない。むしろ、その行為自体が無視されていると言ってもよい。それが善であるか悪であるか、ということを議論することそのものがタブーである。
法治主義の下では、嘘をつくことに関して一切の倫理が存在しない。それは倫理の外にある行為であり、こう言ってよければ、表現の自由の一種である。表現の自由とは嘘をつく自由に他ならない。
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罰は罪に対応するものである。法を犯した者は罰を与えられるが、罰の大きさは犯罪の程度によって異なる。より重い罪はより重い罰に対応し、より軽い罪はより軽い罰に対応する。したがって、ある行いが重い罰に相当するということは、その行いが非常に悪いものだったことを意味する。
そのように、刑罰の程度によって、人は善悪の判断を行うようになる。ある行いが悪いものだから、それが重い罰に対応するというよりは、それが重い罰に対応するから、悪い行いなのだ、と認識するようになる。罰は罪を表示するためにある。どんな行いが悪であるか、ということを人々に認識させるために刑罰が必要とされる。
法治主義においては、法こそが善悪の基準であると考えられるために、罪と罰の対応は極限まで推し進められる。そこでは法を犯すことが悪であり、罰される行為が悪である。そうすると逆に、法を犯さず、罰されない行為は悪ではない、と考えられるようになる。ここに問題がある。
殺人はどんな場合でも犯罪である。窃盗はどんな場合でも犯罪である。これらは法を犯す行いであり、罰に値する。しかしながら、嘘をつくことは犯罪ではない。もちろん、嘘をつくことで他人に損害を与えた場合、詐欺罪等に問われることになる。しかし、嘘をつくという行為そのものは違法ではなく、罰されることはない。したがって法治主義の下では、嘘は悪ではない、ということになる。
罪と罰を対応させようとする場合、必ず虚言がはみ出してしまう。嘘をつくという行為を、罪と罰の対応関係にのせることはできない。しかし、法治主義はその対応関係がなければ成り立たない。ゆえに、嘘の問題を見逃してしまう。
嘘をつくことは悪いことである。これは普遍的な道徳であり、倫理である。そしてこの倫理は、法治主義とは両立しない。現代社会においては、誰も嘘つきを裁けない。嘘をつくことは個人の自由である。
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では、どのようにしてこれを解決すればよいのか。嘘という罪を、罰と対応させることは可能なのか。
解決法は信仰である。すべての行いには必ず報いがある。因果応報、善業楽果、悪業苦果、それを信じればよい。
人間の力では、嘘をつくという罪に罰を与えることはできない。というより、すべての罪に罰を与えることはできない。では、罰を与えられなかった罪は、罪ではなくなるのかと言えば、そうではない。
ここで、善悪と罪罰を切り離そうとする人もいるだろう。罰されなかったからといって、それが悪でないことにはならないし、罰されたからといって、その行いが悪であることにもならない、と。
しかし、そのような考えは混乱を生むだけである。我々はむしろ、人間の手によって罰されなかった罪に対しても、いずれ何らかの形で罰が下されるだろう、と信じるほうがよい。そのほうが合理的であり、何より分かりやすい。
むろんここには何の保証もないが、そうならないという保証もない。ゆえに、そうなると信じることは許されているはずである。これは精神衛生上の解決策と言える。
業の思想は、罪と罰の対応関係を法治主義よりも先まで延長するための、思考の道具である。それは法治主義よりも厳格な法観念に基づいている。