論難に答える 第5回

仏教は思想か

仏の教えの本質は次の偈に尽くされている。

諸悪莫作 衆善奉行
自浄其意 是諸仏教

(悪いことをせず 善いことをして
 心をきれいにしなさい これが諸仏の教えである)

これを聞いて、当たり前のことではないか、と言う人がいる。仏の教えには中身がない、と。

また、諸行無常という教えがある。すべてのものは移ろいゆく、という意味であるが、そんなこと言われなくても分かっている、と思う人も多いだろう。仏陀は当たり前のことばかり言うのでつまらない、思想がない、と。

そのとおりである。仏教は思想ではない。仏は普遍的な真実を述べただけなので、そこに個性がないのは当然である。

思想とは、ある人が独自の見解を示すことである。他の人が考え付かないような含蓄のある言葉が思想と呼ばれる。ゆえに、普遍的な真実は思想ではありえない。ピタゴラスの定理が思想ではないように、仏の教えも思想ではない。

仏陀独自の発見があるとするならば、その当たり前の事実を理解していない人があまりにも多い、ということであろう。

正と邪

だがやはり、諸悪莫作は特別である。なぜならば、他のどの宗教にも、この教えは存在しないからである。

たとえば、キリストは諸悪莫作とは言わなかった。彼は神を信じろと言った。キリスト教の教父たちも、諸悪莫作とは言わなかった。人間には原罪があるから、それを自覚してイエスに帰依しろ、と彼らは言った。人間は生まれながらに罪を背負っている。自分自身の力ではそれをどうすることもできない。そのような罪深い人間でも、神を信じることで救われるのだ、と。

彼らは、悪いことをするな、とは決して言わない。むしろ、悪いことをするのはしょうがないよね、それが人間だよね、と言って、悪を肯定してしまう。そのあとで、でも悪いことは悪いことではないんだよ、神様さえ信じていれば、悪いことをしても許されるんだよ、と言って、神への信仰を勧める。人間の罪はすでにイエスの犠牲によってあがなわれている。ゆえに、我々が罪を犯しても、それはすでに許されていることになる。

これがキリスト教の信仰であり、諸悪莫作を真っ向から否定するものである。キリスト教の本質は道徳の否定である。一方で、仏の教えは諸悪莫作であり、道徳そのものである。ゆえに、道徳を否定することは仏を否定することであり、キリスト教は外道であると言える。

諸悪莫作は当たり前のことではない。これは本当に尊い教えである。この聖なる教えによらなければ、人は簡単に道を踏み外してしまう。

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