論難に答える 第6回

輪廻

今回は輪廻について話そうと思う。

人は死んだあと、別の世界に生まれ変わる。生前に積んだ業によって、天に生まれたり、地獄に生まれたり、畜生や餓鬼になったり、再び人間になったりする。さて、こんなことが本当にあるのだろうか。

正直に言って、分からない。なぜならば、私はまだ死んだことがないからである。死んだあとどうなるのか、ということは、実際に死んでみないと分からない。ゆえに、輪廻が本当かどうかも分からない。しかし、何の証拠もない以上、嘘だと断定することもできない。これが一般論である。

因果応報

簡単に言えば、輪廻とは地獄のことである。たとえば、生きている間にさんざん悪いことをして、何の罰も受けずに死んだ人がいたとしよう。こういう人は少なからずいる。彼は、死んだあと地獄に堕ちるはずである。そうでなければおかしい。

法律は万能ではない。すべての罪を人間の力によって裁くことはできない。では、法律によって裁かれなかった罪は、存在しないことになるのだろうか。そのような罪は、対応する罰を持たないことになる。罰を持たない罪は、罪と言えるのだろうか。

実際のところ、我々は罰によって罪を認識している。結果によって原因を認識しているのである。ゆえに、罰せられない罪は、罪として認識され損なってしまう。刑罰は何のために必要なのか、という議論はよくあるが、それは罪を認識するために必要なのだと思う。罪と罰の対応関係を明らかにすることで、我々は善悪を明確に区別できるようになる。

善悪は結果によって名付けられる。これが因果応報ということである。善い行いは、善い結果をもたらすから善いと言われる。悪い行いは、悪い結果をもたらすから悪いと言われる。

現代の社会では法治主義が行き届いているために、ほとんどすべての悪事が法によって裁かれているように信じられている。だが実際には、人間の法は穴だらけである。悪い行いが必ずしも法によって裁かれるとは限らない。そのとき、我々は悪を悪として認識することができなくなってしまう。これが倫理の欠如という重大な問題を引き起こす。

法律は倫理の代わりとはなりえない。倫理とは善悪の認識を我々にもたらすものでなければならないが、法律はその役割を完全に果たすことはできない。なぜならば、すべての罪を罰と対応づけることができないからである。法による裁きには限界があり、少なくない罪を取り逃してしまう。だが、善悪の認識には取りこぼしがあってはならない。

ゆえに、我々はむしろ次のように考えるべきである。法によって裁かれなかった罪には、死後に裁きが与えられる、と。これによって罪と罰の対応関係は完ぺきなものになり、完全な倫理体系がもたらされる。それが輪廻である。

地獄が存在しない、という話を聞いて喜ぶのは悪人だけである。善人にとっては、地獄はあったほうがよい。なぜなら、地獄を信じている人には、悪事はできないからである。我々はすべての人間に地獄の存在を信じさせねばならない。それが社会正義を実現する最良の手段である。

嘘をつく罪

もう一つ、注意しておかねばならないことがある。それは嘘についてである。先に私は、法によって裁けない罪があると言った。その最たるものが嘘である。

たとえば詐欺罪という罪がある。これは、嘘をつくことで他人に損害を与えることを禁止する法であり、嘘をつくこと自体を禁止しているわけではない。文書偽造も同様で、他者に損害を与えることを禁止しているにすぎない。これに限らず、事実上、法律によって嘘を禁ずることはできない。そのため現代では、嘘をつくことは悪いことではないと考えられている。

現代の社会には倫理が存在しない。なぜなら、法律が倫理の代わりとなっているからである。現代人は善悪の観念を持たない。その代わりに、自分の損得で物事を判断する。現代人が悪事を働かないのは、それが法によって裁かれることを知っているからである。法の裁きを受けることは損なので、悪いことはしない。しかし、法の裁きを受けないのであれば、何をするにも躊躇はない。

嘘をつくことは、直接罰せられることが少ない罪である。まず、それを禁ずる法がない。また、彼が嘘をついているかどうか、すぐには分からないことが多い。そのため、周囲の人に罪がばれにくく、社会的な制裁を受けにくい。しかし社会の秩序を乱すという点では、嘘よりも大きな害はない。

嘘をつくという罪は、それが明るみに出にくく、裁くことが難しいという点で、最も重大な犯罪である。これを罪として認識していない現代人の倫理は、禽獣にも劣ると言わねばならない。

法治主義が倫理の代わりを果たしている限り、嘘をやめさせることはできない。安倍晋三は国会で嘘ばかりついていたが、彼のような人間が現れるのは法治主義が行き届いた結果である。嘘をついたら閻魔様に舌を抜かれる、という話を馬鹿にする人には、安倍晋三を批判する資格はない。なぜなら、それ以外に嘘をやめさせる方法はないからである。

善悪の判断は内面化されねばならない。それがその人の行動を左右するようにしなければならない。我々は恥を教えなければならない。悪事を働くことを恥ずかしいと思うように、嘘をつくことを恥ずかしいと思うように、人間を教育しなければならない。安倍晋三は教育に失敗した事例である。彼は恥を知らない。

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