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浄土、浄土と言っても、浄土という言葉に対応する実体がどこかにあるわけではない。すべての言葉は空であって、中身がない。ある言葉に意味があるということは、その言葉に対応する何らかのものが存在するということではなく、その言葉が何らかの働きをなしうるということである。
ソシュールの記号論では、記号の表現と、その記号が指示する対象が一対一で対応する、と考えられている。彼は記号の世界と対象の世界という二つの世界を仮定し、それらの間の関係を考察しようとする。それは記号に関する静的なモデルであり、一種の二元論であると言える。
一方でパースの記号論においては、記号の表現とその対象の他に、解釈項というものが仮定されている。これは大雑把に言えば、記号を解釈する人間のことである。記号が意味を持つのは、それを解釈する人間がいるからである。この当たり前の事実を理論的に表現したのが解釈項という概念である。この考え方がパースの記号論を非常に複雑で奥深いものにしている。
たとえば、みかん、という言葉が意味を持つのは、我々が、みかんが何であるかを知っているからである。つまり、みかんという言葉には、我々にみかんを思い起こさせる、という働きがある。それが、みかんという言葉の意味である。
みかんという言葉は、あらかじめ、何らかの神秘的な形で現実のみかんと結びついているわけではなく、我々自身が、その音の並びを、みかんと結びつけているのである。このように、記号を解釈する過程が存在することで、はじめて記号は意味を持つ。それが解釈項の働きである。
記号の本質は、その表現の中にあるのではなく、それが指示する対象の中にあるのでもなく、その記号が何を意味しているのか、ということを解釈する過程の中にある。そのようなダイナミズムとして記号を捉えようとすることが、パースの記号論の特徴である。
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このような考え方をするならば、浄土という言葉の意味は、その言葉が我々にどのような働きをなしうるのか、あるいは、その言葉が我々をどのような働きに導くのか、という点にあることになる。つまり、浄土について考えるということこそが、浄土という言葉の意味である。
この場合、実際に浄土というものが存在するかどうか、ということは本質的な問題ではない。そうではなく、浄土について考えることによって、あるいは、どのようにすれば浄土に往生できるのか、ということを考え、その手だてを実践することによって、その人の生き方そのものが変化してゆくということ、その過程が浄土という言葉に意味を与えるのである。
もちろん、実際に浄土はある。お釈迦様がはっきりとそうおっしゃっているのであるから、それを疑うべき理由はない。しかしながら、言葉の性質をより詳しく追及してゆくときには、ここで述べたようなことも考えてみなければならない。
ざっくり言えば、浄土という言葉が意味するものは諸悪莫作である。それだけである。あらゆる仏の教えの意味は諸悪莫作に尽きている。
ハイデガーや旧世界の思想家たちがパースを理解できなかったのは当然である。なぜならば、彼らはガチガチのキリスト教徒だったからである。もちろんパースもキリスト教徒ではあったが、かなり進歩的なキリスト教徒だった。彼に、もっと仏教について知る機会があったらよかったのに、と思う。