法治と徳治
私は、アジアの政治制度を理解するために、徳治主義という概念を提案している。これは、ヨーロッパの法治主義に対するものである。ここで簡単にその説明をしたい。
法治主義は、法に従わないものに罰を与える。罰を受けたくないから、人は法に従うようになる。一方で徳治主義は、法に従うものに利益を与える。多くの利益を受けたいから、人は法に従うようになる。
たとえば、株式会社は営利組織であるが、そこには一定のルールがある。社員が同じルールに従って業務をこなすことで、効率が上がり、利益が増える。会社の利益が増えると従業員の給料も上がるので、ルールに従ったほうが得である。そのように、利益によって人を従わせるのが徳治主義である。
徳と得の字は音が通じ、同じ意味で用いることもある。つまり、徳とは利益のことである。
日本は法治国家か
最近のコロナ騒動の中で、日本ではどうしてロックダウンができないのか、という意見が多く聞かれた。それはおそらく、日本が徳治主義の徹底した国だからだろう。
日本という国は、政府が国民を統治しているのではなく、国民の協力のもとで、政府が成り立っているのである。だから、政府は国民に無理強いができない。これは、日本が法治国家ではないことを意味している。
政府が国民に何かを強制することを、日本人は嫌う。彼らにとって、政治とは支配ではなく、協力だからである。国民の協力のおかげで、政府は存立できる。ここに上下関係は存在せず、ただ相互の利益を慮るだけである。
また、このような理念のもとでは、国家は主体とはなりえない。主体は常に個人であり、法の執行者としての無人格的な主体は存在しえない。政府は、国民とは別個の主体として存在するわけではなく、それは国民の中に含まれた、国民の一機能にすぎない。
西洋の政治学では、政府と国民を独立したものとして扱うことが多い。それは封建遺制である。それは、貴族と平民が分離されていた時代の名残であり、階級制の特徴を色濃く残した概念である。ゆえに、日本のような平等主義が徹底した国を理解するためには、政府と国民の対立という概念は適当ではない。政府は、国民に含まれたものとして理解されるべきである。
面子の政治
中国は、日本よりも専制的な政治構造を持っているが、徳治主義という本質は変わらないと考えられる。ただ、社会を貫く倫理や文化が、日本とは大きく異なっている。
最近は、中国の軍事的な脅威を心配する人が多い。そういう人は、中国を一枚岩の国家と考えているのだろう。だが実際は、習近平の強がりにすぎない。
たとえば、中国は今でも台湾の併合を主張するが、それは、そう言わないと面子が立たないだけである。指導部の綱領から外れたことを言えば、その人の面子がつぶれ、権力の座から追い落されてしまう。それは国家主席であっても例外ではない。もしも習近平が毛思想に反することを言えば、それを理由にほかの党員から批判されることになるだろう。
つまり、中国内部の権力争いに勝利するために、対外強硬姿勢をとる必要があったから、そうしているにすぎない。したがって、我々のすべきことは、日本に協力する人間が権力争いに勝てるような状況を、中国内部に作り出すことである。そうすれば、中国のトップも日本に対して融和的な態度を取らざるをえなくなる。
そのためには、まず日本の姿勢を明確にする必要がある。ここまではよいが、ここらはだめだ、という線を決めて、この線からは一歩も引かない、という強い意志を見せることである。日本が手ごわい相手だとわかったら、中国人もあえて日本と事を構えようとは思わない。
また、中国人と戦うときには、言葉の勝負に勝つ必要がある。こちらに理があるということを堂々と主張し、相手を言い負かすことで面子を守ることができる。中国人を相手にする場合は、理屈の力がものをいう。我々が主張すべきはアジアの利益であり、団結である。中国人よりも大きな理想を示し、彼らを威圧せねばならない。