公平な裁き
2022年2月24日、ロシア軍がウクライナへ侵攻を開始した。テレビでは連日この事件を報道しているが、いつも通りロシアを非難する論調ばかりである。
ロシア側によれば、事の発端は東西ドイツ統一後にNATOとの間で交わされた約束にあるという。それはNATOをドイツより東には拡大させないという内容だったが、NATO側が一方的にその約束を破り、加盟国を増やし続けた。それがロシアにとって深刻な脅威になったので、自衛のためにウクライナのNATO加盟を阻止しようとしたのだという。
この話が本当だとすれば、非はNATOにある。一部報道によれば、ロシアとNATOの間で交わされた約束は口頭によるもので、文書化はされなかったという(参考:外部リンク「ウクライナ侵攻は序章に過ぎない」)。口頭の約束だから破ってもかまわない、というNATO側の態度に問題があるだろう。
NATOもウクライナも、同国の加盟がロシアを刺激することになると分かっていながら、自陣営の利益を優先させるために、あえてその方向に進んだ。それは国際協調を乱す行為であった。
国際秩序は信用によって成り立っている。ゆえに、NATOがロシアの信用を失うようなことをしたのだとすれば、国際秩序を破壊したのはNATOだと言える。この点を考慮すると、NATOに対しては何らかの処分が必要である。一方、暴力によって問題を解決しようとしたロシアも、正しいことをしたとは言えない。したがって、喧嘩両成敗が公平な裁きであろう。
国連は明らかにNATOに肩入れしており、公平性からは程遠い存在である。今回のような場合に、公平な裁きが行える政治秩序が存在しないことは人類の不幸である。
平和のために
そもそも、NATOは冷戦時代に作られた軍事同盟であり、ソ連の崩壊によってその存在意義は失われたはずである。ところがその後も、対ソ連という目的を失ったまま、強力な軍事同盟として存在し続けている。これはとても健全な状態とは言えない。
現在のNATOの仮想敵国がロシアだとするなら、互いの戦力に差がありすぎ、力の均衡が破れていることになる。NATOには本来、力の均衡によって国際秩序を確立するという重要な役割があったが、ソ連の消滅によってパワーバランスが崩れたことで、その軍事力が国際社会に対する脅威となっている。
NATOはその力を背景として加盟国の利益を追求する。たとえば2011年アラブの春のとき、NATO軍はリビアに空爆を行ってカダフィ政権を崩壊させた。これはNATO加盟国共通の価値観である自由と民主主義を守るために、それを否定する国家を暴力によって転覆させたものである。
世界中の人々が民主主義を尊重するのは、その理念の尊さに共感するからではなく、その背後にある暴力を恐れるゆえである。ウクライナがNATOにすり寄るのもまたしかり。
民主主義を広めるためなら暴力をもいとわないNATOの方針は、その価値観を共有しない人々にとっては野蛮なものに見える。実際、民主主義が必ずしも人類の福祉に貢献しないものであることは、歴史によって証明されてきた。
かつてインドやアジア諸国を支配し、中国人にアヘンを売って外貨を稼いだ無法国家は、民主主義を採用していた。また、北米に入植した民主主義者の集団は、一方で原住民のインディアンを迫害して絶滅の淵に追いやり、他方でアフリカから大量の人間を誘拐して過酷な労働に従事させた。これが民主主義の歴史である。
私は民主主義の全てを否定するものではないが、それが万能だとも思わない。民主主義はときに人類から幸福を奪うこともある、という歴史的事実を指摘したいだけである。
本当ならば、NATOのような強大な軍事力が国際社会を意のままに操る状況を放置しておくべきではない。できれば、これを細かく分割して、それぞれの力が他を圧倒することがないように制御しなければならない。大きな力の塊ができることは避けるべきである。
NATOは多数の国民国家の複合体であり、何らかの政治的機能を提供するものではない。だが、本当の意味での国際秩序を構築するためには、強い政治的な力が必要である。我々は国民国家の主権を制限するような、より上位の政治組織を作らなければならない。それはEUのような局所的なものではなく、特定の主義や主張にとらわれない普遍性を持つものでなければならない。
それはたとえば、江戸時代に諸藩のうえに幕府が鎮座したように、諸々の国民国家を土台として、そのうえに成立する中央政府である。その本質的な機能は倫理規範の独占である。いかなる主義にもよらずに、ただ理性のみによって公平性を実現すること、それが公儀が果たすべき役割である。我々日本人は、その役目を自らに課さなければならない。世界政府を作るにふさわしい民族は日本人以外にいない。
いまの国際法では戦闘員を殺しても無罪ということになっているが、そのような法律があるから戦争がなくならないのである。人の命に優劣はない。ウクライナの幼稚園児の命と、ロシア軍の兵士の命は同じ重みをもっている。戦争とはつまるところ人殺しであり、殺人の罪を犯しているという点では、ウクライナ人もロシア人も同じである。
我々は、すべての殺人を犯罪とみなすような新しい国際法を作らねばならない。全人類が従うべき普遍的な立法である。その新しい国際秩序を構築するために、日本は国連を脱退すべきである。
国連には戦争を止める力はない。それは、この80年の歴史によって明らかである。我々は古い国際協調の枠組みを捨てて、より厳格な方法で世界をまとめ上げねばならない。
ついでに
ロシアへの経済制裁によって、小麦の価格が上がり始めている。ロシア産の石油や天然ガスの禁輸が続けば、エネルギー価格も上昇するだろう。今回の戦争で得をするのは、アメリカを含む一部産油国の富裕層だけで、一般市民は物価の上昇に苦しむことになる。それはロシア市民だけでなく、西側諸国の市民も同様である。
経済制裁を主導する政治家や知識人にとっては、この程度の物価の上昇は痛くもかゆくもないのだろう。しかし、一般市民の生活水準が低下することは避けられない。それは、ロシアに対する締めつけを強めた西側諸国の失策の結果なのだが、政治家たちはすべてをロシアのせいにしようとしている。メディアはウクライナの人道危機をあおって、「欲しがりません勝つまでは」の精神を国民に吹き込む。私にとっては、ウクライナよりも自分の生活のほうが大事なのだが。
西側諸国の指導者たちは、世界中の市民を苦しめた責任を取るべきであろう。テレビをつけると毎日ウクライナの話をしているので、文句の一つも言いたくなってしまう。
(2022/3/18追記)
我々はウクライナに対して同情的になる必要はない。なぜなら、ロシアに喧嘩を売ったのはウクライナのほうだからだ。そもそもNATOは軍事組織であり、ウクライナがNATOに加盟したがっているのは、軍事力によってロシアを打ち負かすためである。
ときどき勘違いしている人がいるが、安全保障とは戦争のことである。隣国を打ち負かすだけの軍事力を維持していることを、安全が保障された状態という。ウクライナがNATOの軍事力を必要としたのは、戦争によってロシアを倒すためであり、したがって現在の状態はウクライナ人が望んだとおりの結果だと言える。
安全保障という発想で外交を考えている限り、平和を実現することはできない。