このまえテレビを見ていたら、トランスジェンダーを題材にしたドラマをやっていた。何となく見ていただけなので、ドラマのタイトルは覚えていない。私が見たシーンは次のようなもの。
現在は男性として生きる元女性の新入社員が、会社のトイレを利用せず、コンビニのトイレを利用していた。会社の同僚はそれを見て不審に思う。事情を知る上司が本人に聞いてみると、会社のトイレは男女別になっているので入りづらい、という話だった。
私はいままで、LGBTの何が問題なのかよく分からなかったが、この話を見てようやく理解した。社会が押し付けるジェンダーがしっくりこない、ということらしい。これはジェンダーの内面化の問題と言える。
同様の問題がインドにもある。むかしイギリス人がインドの支配を始めたとき、現地のカースト制に基づいて法律を作った。そこでは同一の罪に対して、バラモン階級の人間とクシャトリア階級の人間とでは、受ける刑罰に違いが生まれることがあった。
そうすると、自分がどの階級に属するのか、国民は意識せざるをえない。法律に基づいた社会制度を実現するためには、法律に合わせて、人間が枠にはまらねばならなくなる。
ヴァルナという風習はもともと厳密なものではない。厳密な区別をつけようとすると、どのヴァルナにも属さない人間が必ず出てきてしまう。別にそれでもよかったのだが、法律に基づいた政治を行うためには、それでは不都合だった。
法律の上では、すべての人間は四つのカーストのどれかに属することになっているので、それに合わせて、人間を分類しなおす必要がある。こうして各人は、自分がどのカーストに属するかという明確な意識を持つようになり、カーストが内面化されることになる。
ジェンダーの問題もこれと同じである。前近代の社会では男と女を厳密に区別する必要はなかったが、
法治主義が社会に導入されると、そこに区別をつけざるをえなくなる。そうすると、どちらの区別もしっくりこない人間は窮屈さを感じるようになり、苦痛を訴えるようになる。
どうしてそうなるかというと、言葉の性質を正しく理解していないからである。言葉とは本来大雑把なものであって、現実の世界を忠実に反映するものではない。「男」と「女」の区別は本質的なものだが、それぞれの個体を見れば、男女の中間的な性質をもつものも存在する。
別にそれで構わないのだが、法律はそういう曖昧さを嫌う。分かりやすくいえば、すべての言葉はフィクションである。そのフィクションに合わせて現実を作り変えようとするのが法治主義である。それが個人に苦痛をもたらしていることが、ジェンダー問題の本質である。
我々の社会はすべての人間に、男であるか女であるかどちらかに決めろと迫ってくる。そのどちらともつかない人は、この問いかけ自体を否定したくなる。だが、この問題は個人の自由とは全く関係なく、法治主義がはじめから持っている欠陥にすぎない。
したがって、これを解決するには、法治主義を捨てねばならない。そのためには、言葉の不完全さを認める誠実さが必要となる。
実際には、法治主義を原因とする問題は他にもあるのだが、誰もそれに気づいていない。なぜかというと、多くの人は、法治主義は無条件に正しいという先入観を持っているからである。
誰もそれを疑おうとしないから、問題が発見されない。ただ発見されないだけで、問題自体はむかしからあるのだ。