Winny事件にみる道徳の喪失

今年(2023年)Winny事件が映画化され、再び注目が集まっている。

2002年に開発されたファイル共有ソフト「Winny」は、ユーザーによる著作権侵害が社会問題化し、2004年に開発者の金子勇氏が逮捕されることになった。罪状は著作権侵害の幇助である。7年にわたる裁判の末、金子氏には無罪が言い渡されたが、この事件が優れた才能を潰し、日本の技術競争力を奪った、と言われることがある。

日本経済に貢献する可能性があった、という観点からWinnyを擁護する意見はよく聞く。だが、こういう意見を述べる人は、本当はWinnyを否定しているのだと思う。

当時、私がこの事件に感じた違和感は、なんで著作権侵害くらいでそんなに大騒ぎするのか、というものだった。

思うに、犯罪には二種類ある。ひとつは道徳的な犯罪で、もうひとつは法律上の犯罪である。

たとえば、人を殺してはいけない、ということは道徳的な判断である。たとえ法律で禁止されていなかったとしても、人を殺すことが犯罪であることに変わりはない。実際、現在の国際法では、戦争状態における戦闘員の殺害は犯罪とみなされない。だが、法律で禁止されていなくとも、それは犯罪である。

また、嘘をつくということは、人間が絶対にしてはいけないことであり、道徳的な犯罪であるが、法律で禁止されているわけではない。

このように、道徳的な犯罪と法律上の犯罪は食い違うことが多く、両者の間には一定のずれが存在する。

では、どちらの犯罪がより重要かといえば、道徳的な犯罪である。法律上の禁止事項は時代とともに移り変わる相対的なものにすぎないが、道徳的な禁止事項は絶対的なものであり、時代や文化とは無関係に成立する。したがって、道徳的な犯罪こそが真の犯罪であり、法律上の犯罪は形式的なものにすぎない。

以上を前提として、改めてWinny事件について考えてみよう。この事件で問われているのは、著作権侵害という罪の重さである。はっきり言って、これはそれほど重大な罪ではない。

著作権法が定める罪は、他人の金儲けを妨害する罪である。ある人が著作権を侵害することによって、侵害された側は本来得られるはずだった利益を得られなくなる。それが罪だ、というのが著作権法である。人のものを盗むことは道徳的な罪であるが、著作権侵害は何かを盗んでいるわけではない。そうではなく、金儲けの機会を失わせたことが罪だというのだから、言いがかりに近い法律である。

もちろん、経済活動を円滑に進める上で、著作権が必要なことは認める。しかし、そんなに目くじら立てて怒るほどのことだろうか、とは思う。むしろ、著作権侵害を非難する人のほうが大人げないし、恥ずかしいことではないか、と。

Winnyが流行した当時は、まだ著作権というものがそれほど強くなく、著作権侵害が深刻な犯罪だという認識は形成されていなかった。この事件を語る際には、その点を見落としてはならない。

Winny開発者の逮捕が日本から技術的な可能性を奪った、ゆえに逮捕は間違いだった、という意見は、著作権侵害による損失よりも、新しい技術を育てる利益のほうが大きい、というにすぎない。逆に言えば、もしもWinnyに技術的な独創性がなかったならば、金子氏は有罪にされるべきだった、と彼らは考えているのである。

こうした議論の背景にある思想は「金儲け=善」というものである。この考えに基づけば、金儲けを妨害することは悪であり、断罪されるべきことだ、ということになる。Winny事件の場合は、その技術力が著作権侵害よりも大きな利益を生み出す可能性があったために、彼らのお目こぼしを受けているのだ。

Winny事件と同時期に起きたものとして、ライブドア事件がある。これは前者とは逆に、「金儲け=悪」という発想からライブドア取締役の堀江貴文氏が起訴されたのだ、と言われている。このころに、日本人の倫理観が大きく揺らいでいたことが分かる。

それ以前には、日本人の間では道徳的な犯罪と法律上の犯罪は明確に区別されていた。しかし、これらの事件以降は、両者の間に区別がなくなってしまった。道徳的な犯罪という観点が消失してしまったのである。

法律というものが、倫理と同じ重みをもって日本人を支配するようになった。それがWinny事件の意義である。そしてそれは、金儲け至上主義が日本に導入されたことを意味する。というのも、近代法は個人の権利を最大限保証するように作られているからである。近代法の精神が内面化されるということは、金儲けが絶対視されるようになる、ということである。それが日本社会に起きた変化であった。

こうした観点からすれば、「道徳は相対的なものにすぎず、時代や文化によって変化する」という言説は、近代法の内面化を正当化するものとみなされる。彼らは道徳の絶対性を否定し、相対的な価値しかない近代法にすべてを委ねることを人々に促す。

実際には、道徳こそが絶対であり、法律には相対的な価値しかない。だがリベラリストによれば、近代法こそが絶対であり、道徳には相対的な価値しかない。

現代人はとてつもなく愚かなので、絶対性と相対性を取り違えるこうした過ちを簡単に犯してしまう。ゆめゆめ注意を怠ってはならない。

蛇足になるが、金子氏側の主張によれば、彼には著作権侵害を幇助しようとする意図はなかったとされる。だが、そのソフトがそうした目的で使われることを理解したうえで開発し提供したのだから、彼が無罪だとは言えない。

ここで、罪を犯したのは利用者であり、開発者に罪はない、という議論は可能である。しかし、もしも著作権侵害が道徳的な犯罪であったならば、それでも開発者は断罪されるべきだったと言える。実際には、それは道徳的な罪ではないので、開発者が無罪という判断は妥当である。

また、この事件が日本からイノベーションの可能性を奪ったかどうかについては、私には判断できないし、判断するつもりもない。そもそも、その種のイノベーションに価値があるとは思えない。現代人が新しい価値を創造するのは、その価値によって金儲けをするためである。金儲けのための金儲けこそがイノベーションの本質である。

そんなくだらない基準でWinnyを評価するべきではない。それはただただ楽しかったのだ。

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