オリラジ中田の松本批判

お笑いコンビ「オリエンタルラジオ」の中田敦彦は、松本人志を批判する動画を2023年5月29日にYouTubeに投稿した。それに対して芸人たちが様々な反応を示し、盛り上がりを見せている。

私は文無しのおっさんなので、YouTubeとテレビくらいしか娯楽がない。だから、この話題に興味津々である。ちょっと思うところを書いてみたい。

私はオリラジが好きである。彼らの「Perfect Human」には大いに笑わせてもらったし、いま見ても面白いと思う。

彼らの芸のどこが面白いかというと、中田敦彦という人間の自意識の強さである。中田は有名大学を卒業した秀才であり、エリートとしての自覚を持っている。その高い理想と、現実の彼のギャップが笑いを生んでいる。

むかし唐の杜甫という詩人が、白帝城に登って詩を詠んだ。白帝城は三国志の劉備の居城である。劉備はこの城で没し、諸葛亮に後事を託したと言われている。杜甫は諸葛亮と自分を重ね合わせ、思うようにならない人生を嘆いた。

 あかざつえつきなげくものは誰子たれ
 泣血きゅうけつそらほとばし白頭はくとうめぐらす

このときの杜甫は何の官職にも就いていない、無名の老人である。その老人が城に登り、諸葛亮になったつもりで泣き叫んでいる。志の高さは諸葛亮と変わりなかった。だが、現実の彼はどうか。

杜甫は自分の姿を客観的に捉え、いささか誇張を加えて読者に提示する。その悲痛さは我々の胸を打つが、同時に何とも言えない面白味を感じる。

杜甫の抱いている理想が高ければ高いほど、現実の彼の姿とのギャップが大きくなる。それが笑いを誘う。

中田の笑いも基本的にはこれと同じである。彼の抱いている自己イメージがあまりにも強烈なので、それを素直に提示するだけで笑いが生まれてしまう。「Perfect Human」は中田の自己イメージそのものであり、それを直感的に理解するからこそ、我々は可笑しみを感じる。つまり、彼は自分の姿を笑いに変えているのである。

ここがポイントで、中田の芸は「笑わせる」ものではなく、「笑われる」ものなのだ。彼は自分自身を見世物にすることで笑いを生み出している。松本人志がこれを気に入るわけがない。

松本は天才芸人の例にもれず、客に笑われるのではなく、客を笑わせるのが本当の芸人だ、という哲学を持っている。正直どっちでもいいと思うのだが、ここが大事らしい。こうした哲学のもとで、笑われることを追求する中田の芸は否定されることになる。中田はこれに不満を抱いている。

笑わせる松本は、笑われる中田を理解できない。

そもそも、中田の笑いはエリートの笑いである。エリートのように高邁な理想を抱き、エリートのように強烈な自意識を持っているから、それを笑いに変えることができる。

だが、非エリートにはそれが鼻につくし、そのような笑いを理解することができない。彼らの自己評価は地につくほど低いので、中田の絶望を共有できないのだ。そこに笑いは生まれない。

中田の尊敬する爆笑問題・太田光はピエロの姿がよく似合う。太田は高い理想を持っているが、その理想に手が届かない。その滑稽さはピエロのそれである。

一方、中田の場合は、現実が低すぎて手が届かない。太田は現実の中に身を置いているが、中田は理想の中に住んでいる。その姿が笑いを生む。それはピエロではなく、ドン・キホーテの笑いである。

中田は話題となった動画の中で自分の不遇を嘆いているが、その不遇を笑いに変える才能が彼にはある。また笑わせてほしいと思う。

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