いま、デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』を読んでいる。けっこう面白かったので、読解をしたいと思う。
要約
本書によればブルシット・ジョブとは、「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある雇用の形態である。とはいえ、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている」、そのような仕事である。
ブルシット・ジョブの例として、グレーバーは自身の経験を引き合いに出す。ちょっと長いがそのまま引用する。
海のみえるイタリア料理店で皿洗いをした最初の仕事の経験を、わたしはよくおぼえている。わたしは、夏のシーズンのはじまりに雇われた三人の若者のうちのひとりだった。最初のかき入れ時が到来したとき、だれが史上最高の英雄的皿洗いか証明してやろうというゲームが自然とはじまった。三人は一丸となって効率性を追求する電光石火のマシンと化し、ピカピカの皿の山を記録的な時間で積み上げたのだった。そして、壁にもたれて、自分たちの成果に鼻高々で、おそらくは一服や、自分たちの腹を満たそうと休憩にはいろうとした――もちろん、ほどなく上司が姿をみせ、なにをぶらついてだらだらしてやがんだ、といってきた。
第三章、130p
「いま皿が戻って来ないからなんて関係ないぞ、時間をムダにするな! ぶらぶらするんなら自分の時間にしろよ。仕事に戻れ!」
「でもなにをすればいいんですか?」
「金たわしをもってこい。それで、ベースボード〔壁と床の間の巾木〕を洗え」
「でもベースボードはもう洗いました」
「だったらがんばって、もう一回ベースボードを洗えよ!」
わたしたちは、ここから教訓を学んだ。勤務時間内には、効率を上げすぎてはならない。ぞんざいに感謝される(わたしたちの期待していたものとは、これぐらいだったのだが)ことすらないのだから。それどころか、罰として時間つぶしの無意味な仕事を課せられることもあるのだ。また働くふりを強いられるのは、ほとんど絶対的な屈辱であることも、わたしたちは知った。なぜなら、やってもいないことをやってるふりをするのは不可能だったからである。要するに、それは上司にとっては、純粋なる権力行使のための権力行使、わたしたちにとっては純粋なる不名誉だったのだ。ベースボードを磨くふりをするというだけなら問題ではなかった。ベースボードを洗うふりをするすべての瞬間で、いじめっ子がわたしたちの肩越しにほくそ笑んでいるように感じられたのだ
働くふりを余儀なくされることがかくも腹立たしいとすれば、自分が丸ごと他者の権力のもとにあるありさまがそれによってあきらかになるからである。もしそうだとすれば、さしずめブルシット・ジョブは、先述のように、仕事総体が、そのような原理のもとに組織された仕事なのである。自分が働いていることあるいは、働くふりをつづけるのは――なにか相応の理由、少なくともみずからがそう実感できる相応の理由があってのことではなく――、ただ働きつづけることそのものが目的であるにすぎない。それがひとにとって苦しみであっても、おどろくにはあたらないだろう。
第四章、142p
著者はブルシット・ジョブの例としてこのほかに、空っぽの部屋の前に立ち続ける警備員の仕事や、すぐに廃棄されることがわかっている書類を制作する仕事などをあげている。彼はこうした仕事が現に存在することを指摘し、様々な事例をあげながら、それは増殖する傾向にあると結論づける。次に引用するバラク・オバマ元米国大統領のインタビューは興味深い。
「わたしはイデオロギー的な観点で考えているのではありません。私はそうした観点からものを考えたことはありません」。オバマはつづけて、医療制度のテーマについてつぎのように述べた。「単一支払者制度による医療制度を支持するひとはみな、”それによって保険やペーパーワークの非効率が改善されるのだ”といいます。でもここでいう「非効率」とは、ブルークロス・ブルーシールドやカイザーなどで職に就いている一〇〇万、二〇〇万、三〇〇万人のことなのです。この人たちをどうするんですか? この人たちはどこで働けばいいのですか?」
第五章、210p
・・・ここで大統領はなにをいっているのだろうか? かれは、カイザーやブルークロスのような医療保険会社がやっている何百万もの仕事が必要のないものであることは認識している。また、社会化された医療制度のほうが、現在の市場ベースのシステムよりも効率的だということさえも認めている。それによって、不必要なペーパーワークが減少し、民間企業間の過酷な競争活動が緩和されるだろうからである。しかし、かれは、まさにそれゆえに、社会化された医療制度は望ましくないというのである。オバマによれば、既存の市場ベースのシステムを維持する理由は、まさにその非効率性にある。なぜなら、この書類屋たちに次の仕事を探してやるべく右往左往するよりも、基本的に無益であるおびただしい事務職を維持するほうが望ましいのだから。
というわけで、当時、世界で最も力をもっていた人間が、おのれの目玉となる政策をふり返りながら、その政策の形成にあたって重要となった要因はブルシット・ジョブの維持であると公然と語っているのである。
どうしてこのような事態になっているのだろうか。なぜブルシット・ジョブは存在し、増殖を続けているのか。ネオリベラリストが主張するように、自由競争が仕事の効率を高めるのだとすれば、無意味な仕事などこの社会に存在するはずがないではないか。しかし、公的事業だけでなく民間企業においてもブルシット・ジョブは増加している。グレーバーはその答えを、現代社会の封建化に求める。
古典的な意味での資本主義のもとでは、生産の管理によって利潤が獲得される。資本家はモノをつくったり、建てたり、修繕したり、維持したりするためにひとを雇い上げるわけだが、もし顧客や消費者から受け取る報酬よりも、必要経費の総額――そのなかには労働者や請負業者などに支払う費用もふくまれている――が高ければ、利潤を確保することができない。この種の古典的な資本主義体制のもとでは、不必要な労働者を雇う意味がない。利潤を最大化することは、できるだけ少数の労働者に、できるだけ少額の賃金を支払うことを意味しているからである。競争の激しい市場においては、不必要な労働者を雇い入れる資本家たちは生き残りの見込みがないのだ。もちろん、教条的なリバタリアンや、ついでにいうと、正統派マルクス主義者たちが、わたしたちのこの経済がブルシット・ジョブだらけになる可能性を決して認めないのはそのためである。それはすべて幻想であるというわけだ。しかし、経済的思惑と政治的思惑が重なり合う封建制の論理にしたがえば、そのような事態も完全に理解可能である。PPI〔二〇〇六年イギリスで起きた、保険証券のスキャンダルに伴う払い戻し事業〕を割り当てる業者たちのように、その核心は、敵から強奪するか、手数料や使用料、地代、徴税などによって平民から徴収することで、たんまりと略奪品を獲得し、それを再分配することにあるのだから。このプロセスのなかで、取り巻きの一群が形成される。それは、華やかさや威厳を誇示するための視覚的な手段であると同時に、政治的な利益供与を配分する手段なのである。・・・
第五章、233p
もしこうしたことがすべて、大企業の内部構造と大いに似ているとすれば、それは偶然ではないだろう。要するに、そのような企業は、モノを製造したり、建設したり、修理したり、維持したりにますます関与しなくなっており、お金とリソースの領有、分配、割り当てにますます関与するようになっているからである。
もしブルシット・ジョブの存在が資本主義の論理に逆らっているようにみえるとすれば、ブルシット・ジョブの増殖に対するただひとつのありうる説明は、いまのこのシステムが資本主義ではないからということになる。・・・それは古典的な中世封建制に類似している。
第五章、251p
我々の社会は新しい封建制に進みつつある。最近「デジタル封建制」という言葉がはやっているが、グレーバーもそれを感じ取っているのだ。
しかし、なぜいま封建制が生じているのかというと、仕事に対する倫理観に原因があるという。ブルシット・ジョブは無意味な苦行であるが、だからこそそこに価値があるのだ、という倒錯した倫理観を現代人は共有している。無意味で価値のない仕事ほど、報酬を受けるに値する。グレーバーはこうした倫理を二〇一一年のウォールストリート占拠運動のなかに見出した。
自分の仕事には意味がないとか価値がないと口にするとき、そのひとは必ずある種の暗黙の価値論の中で思考している。
第六章、257p
わたしが収集した証言のほとんどで、「意味のある」という言葉は「役に立つ」ということと同義であり、「価値のある」という言葉は「有益な」という言葉と同義であった。
第六章、268p
この種の「社会的価値」は測定することはできないし、たとえば、これまで証言を引用してきた働き手たちと話をしてみるなら、なにが社会にとって役に立ち価値をもち、なにがそうでないかということにかんして、かれらがそれぞれ微妙に異なる考えをもっていることがわかるはずだ。それでもかれらは全員、少なくとも二つの点には同意していると思われる。第一に、仕事をすることで得られる最も重要なものは、(1)生活のためのお金と、(2)世界に積極的な貢献をする機会であるということ。第二に、この二つには倒錯した関係性があるということ。すなわち、その労働が他者の助けとなり他者に便益を提供するものであればあるほど、そしてつくりだされる社会的価値が高ければ高いほど、おそらくそれに与えられる報酬はより少なくなるということ、である。
第六章、271p
二〇一三年の小論で、わたしはこのことを強調した。その理由は、小論発表の二年前のウォールストリート占拠運動の経験のなかで、それに気づいたからである。運動の支持者たちから最もよく耳にした不満のひとつは、次の一節に表現されている。「わたしは少なくともだれも傷つけない仕事を望んでいました。実際に人類になんらかの寄与をしながら、なんらかの方法で人助けをしたかった。人をケアしながら、社会に寄与したいのです。ところが、他者のケアにかかわる仕事に従事すると、ほとんど給料がもらえず借金がかさみ、自分の家族の面倒さえみられなくなるのです」。そこにあるのは、現在の状況が生みだしている不正義に対する、深く、揺るぎのない怒りの感覚であった。わたしは、この占拠運動を、ひそかにだが「ケアリング階級の反乱」と呼ぶようになった。それと同時に、マンハッタンのズコッティ公園を占拠していた人びとは、ひんぱんに運動現場に立ち寄る若いウォールストリートのトレーダーたちと対話を交わすなかで、つぎのような意味合いのことを耳にしていた。「きみたちが正しいことはわかってるさ。自分は世界になにも積極的な貢献なんてしてないし、システムは腐ってる、たぶん自分たちもその腐ったシステムの一部なんだ。もしあんたらがニューヨークで六桁以下〔一〇万ドル以下〕の年収で生活する方法を教えてくれたら、明日にでも辞めてやるよ」。
社会に便益をもたらすことを選んだ人びとや、とりわけ、みずからが社会に便益をもたらしているという自覚をもつことによろこびを感じる人びとには、中産階級なみの給与や有給休暇、充分な額の退職金を期待する権利はまったくない。さらに、自分は無意味で有害ですらある仕事をしているという認識に苛まれねばならぬ人びとは、まさにその理由によって、より多くのお金を報酬として受け取って然るべきだという感覚もまた存在しているのである。
第六章、280p
このような倒錯した倫理観こそがブルシット・ジョブを増殖させ、我々の社会を封建制に向かわせているのである。そして、その起源はキリスト教の神学にある。
論説記者は、今日のモラリストである。論説記者は世俗的な説教師であり、かれらが労働について論じるとき、その議論には連綿と続く神学的伝統が映し込まれている。その伝統において労働は、呪うべきであるとともに祝福すべき神聖な義務とみなされ、人間は可能なかぎりその義務を免れようとする本性的に罪深く怠惰な存在であると考えらえれていた。経済学という学問領域自体、道徳哲学から生まれた(アダム・スミスは道徳哲学の教授であった)、道徳哲学はもともと神学の一部門である。
第六章、255p
エデンの園のエピソードとプロメテウスの神話のどちらにおいても人類が労働しなければならないのは、神に歯向かった罰であると考えられている。だが、それと同時に、食糧や衣服、都市、そして究極的にはわたしたちの物質的世界を生産する能力を人間に与えるのが労働それ自体であって、それは〈創造〉の神聖な力をより穏やかに具体化したものとみなされている。・・・
第六章、288p
いずれのばあいにも、これはわたしたちの共有するようになった仕事の定義について二つの核心的側面を詩的に翻訳したものであるといえる。一つめの側面は、仕事はふつうであればだれもすすんでやりたいとはおもわないものであるという定義である(だから罰なのである)。二つめの側面は、わたしたちは仕事を仕事それ自体を超えたなにごとかを達成するためにおこなっているという定義である(だから創造なのである)。
カーライルによれば、労働は物質的な欲求を満たす方法ではなく、生の本質として捉えるべきである。いわく、神は故意にこの世界を未完成なまま創造なされた、なんとなれば、その神の仕事をおのれの労働をもって完成するよう、神が人間に機会を授けられたのだ、というわけだ。・・・
第六章、298p
カーライルは、最終的に、今日にまで通ずる結論にいたりつく。すなわち、もし仕事が高貴なのであれば、最も高貴な労働には報酬を与えるべきではない。なぜなら、かような絶対的な価値に値段をつけるなど実に低俗ではないか、と
経済がたんなる略奪品の分配方法と化していけばいくほど、効率の悪い手続きや不必要な指揮系統にも実際に意味があることがますますみえてくる。なぜなら、それが略奪品を可能なかぎり大量に吸い上げるのに最も適した組織形態であるからである。労働の価値は生産するモノにあるとか他者に供与する便益にあるとはみなされなくなるのにともない、労働の主要な価値はますます自己犠牲にあるとみなされるようになる。ということはつまり、労働のなかにあって、苦行である度合いを低くしたり、むしろ楽しいものにしたり、他者のためになっていることへの満足をおぼえさせたりする、そのような要素はすべて、その労働の価値を下げるものとみなされるということである――そしてその結果、報酬の水準を低くすることが正当化される。
第七章、318p
グレーバーは、現代社会では週四〇時間のフルタイム労働は必要なくなっている、と主張する。人間が生存するために必要な物質的条件を作り出す労働は、ロボットによって代行できるので、我々はそれほど働く必要はない。にもかかわらず、労働時間が減らないのはなぜかというと、それは富の収奪、つまり再分配のためである。富を作り出すのではなく、それを再分配するための労働、それがブルシット・ジョブの本質である。
こうして我々は苦行のような仕事を強制され、新しい封建秩序を作り出す手伝いをさせられている。そして、その秩序の中に閉じ込められてしまったのだ。この状況を打開するためにはベーシックインカムが必要だ、とグレーバーは述べる。
ベーシックインカムの究極的な目的は、生活を労働から切り離すことにある。
第七章、357p
完全なベーシックインカムによるならば、万人に妥当な生活水準が提供され、賃金労働をおこなったりモノを売ったりしてさらなる富を追求するか、それとも自分の時間でなにか別のことをするか、それにかんしては個人の意志にゆだねられる。こうして、労働の強制は排除されるであろう。
第七章、360p
もし、あらゆる人びとが、どうすれば最もよいかたちで人類に有用なことをなしうるかを、なんの制約もなしに、みずからの意志で決定できるとすれば、いまあるものよりも労働の配分が非効率になるということがはたしてありうるだろうか?
第七章、364p
仕事と倫理
以上が、本書の内容の要約である。本書に挙げられているブルシット・ジョブの事例の多くは、我々にとってなじみ深いものである。現代社会に生きる人々に広く共有されているが、しかし明確に認識されることのなかったこれらの現象に、ブルシット・ジョブという名前を与えたことには大きな意味があると思う。
また、私自身が前々から疑問に思っていたこと、なぜ多くの人がベーシックインカムを支持するのかということにも、ひとつの答えが与えられていたので、個人的には満足している。ベーシックインカムは仕事を悪とみなす人々によって支持されているのだ。私自身は、仕事は喜びであるし、喜びであるべきだと考えているので、ベーシックインカムを支持することはできない。
本書は仕事の倫理に関する本であり、我々が仕事に対してどのような倫理観をもつべきかを議論している。グレーバーは次のようにいう、
一般的には、勤勉な人間は立派ではないとか、仕事を避けようとする人間を軽蔑するべきではないなどと主張することは不可能であるし、そうした主張が公共の議論の中でまじめに受け止められるとはおもえない。
ここで彼は、勤勉な人間は立派だと思っているのだろうか、思っていないのだろうか。グレーバー自身が仕事に対してどのような倫理観を持っているのか、あるいは持つべきだと思っているのかが、本書の中で明確に語られることは一度もない。彼は、仕事に対して何らかの倫理観をもつことが不合理だといっているようにみえるのだが、彼自身は倫理的な動機からこの本を書いているようだ。「本書を書くことは、ある政治的な目的に奉仕することでもある」。したがって、彼は自分の仕事をブルシットだとは思っていない。
ある仕事をとりあげて、その仕事はブルシットだと名指しすることに、いったいどんな意味があるのだろうか。ブルシット・ジョブという言葉そのものが、仕事には倫理的な価値があってしかるべきだ、という考えを反映していることは明らかである。そして、それが問題なのだ。
仕事は倫理学の対象であるべきだ、とグレーバーは考える。だが、なぜ仕事に倫理を求めねばならないのかについては、何も語らない。そう、明示的には語らないが、その根拠がキリスト教の神学にあることを、彼は自分の手で暴露している。
本書で語られたことのすべては、次のように要約できる。「人間は道徳的であるべきだ。ゆえに、金持ちは他者に同情し、施しをしなければならない」。あるいはこれは、本書で語られることのなかった本当の命題である。この一言が言えないために、グレーバーは四〇〇ページにも及ぶ分厚い本を書かなければならなかった。
仕事は神から与えられた罰であり、我々はそれを実践しなければならない。ゆえに、それを怠ることは不道徳なことであり、非難されるに値することである。これが、キリスト教神学が仕事に与えた意味であり、そこには倫理的な価値判断が含まれている。だからグレーバーは、仕事は倫理学の対象でなければならないと考える。
ここで著者は、キリスト教の倫理なるものが存在すると信じているが、それこそが誤りなのである。キリスト教は反倫理的な宗教であり、彼自身がその伝統のなかにとらわれているのだ。
キリスト教の中心的な教義に贖罪というものがある。神の子イエスは十字架の上ではりつけにされて死んだ。それによって、人類すべての罪が許された。この教義が常識的な倫理からどれだけ隔たったものであるか、なぜ誰も指摘しようとしないのだろうか。自分が犯した罪を他人になすりつけ、彼を見殺しにすることで幸福が得られる。このようなたわごとを唱える宗教に、いったいいかなる倫理が存在するというのか。
グレーバーはまるでキリスト教に由来する倫理がヨーロッパ社会を支配してきたかのように語るが、そのようなものは一度も存在したことはない。彼の欠点は、そもそも倫理や道徳という言葉が何を意味するかということに関して、完全な無知の状態に置かれているということ、というより、そこから疎外された状態にあるということである。
神学によれば、すべての人間は原罪を背負わされており、したがって、すべての人間は悪人である。ゆえに、我々に道徳を語る権利はなく、道徳的な存在になる権利もないのである。善を語る人間はすべて偽善者であるという信念も、ここに由来するように思われる。グレーバーは次のように述べる。
ふつう、わたしは本のなかで政策的な提言をおこなうのを好まない。・・・政策という考えのうちには、エリート集団――典型例として政府官僚たち――の存在があらかじめふくまれている。なにごとかを決定し、それからそれをみなに押しつけるようお膳立てする、そのようなエリート集団である。こうした問題について議論する段になると、わたしたちはおよそ心のなかでいくばくか自分自身を欺いている。たとえば、「Xという問題にかんして、わたしたちはなにをなすべきだろうか?」というような言い回しがよくある。まるで社会総体としての「わたしたち」が、自分自身にかんして決定を下しているかのようだ。・・・これは欺瞞的なゲームなのである。・・・私自身は、政策エリートは存在しなければしないほど好ましいと考えているため、そうしたゲームはとりわけ有害に思える。
ここで彼が表明しているのは政府官僚に対する不信感ではなく、道徳を実践することへの恐怖心である。我々は道徳的な存在であってはならない、と彼は固く信じている。しかし道徳について語りたい、それに近づきたいという欲求を押さえることができない。そのために、まわりくどく要領をえない文章を書き残すはめになったのである。
彼は、自分の道義心を何らかの形で茶化さずにはいられないという衝動に駆り立てられている。そのため、友人の恋愛ゴシップや政治談議にうつつを抜かすことこそ、人生の真の目的だとうそぶいてみせるのである。それならば、なぜこの本を書いたのだろうか。なぜ彼は、道徳こそが人生の目的だと言わないのか。
あえていえば、ヨーロッパ文明全体が巨大なブルシットである。彼らは自分自身を道徳から疎外しつつ、まるで牛の糞にたかる銀蝿のように、未練たっぷりにそのまわりをぶんぶん飛び回っている。それが彼らの目に神聖なものと映っているのか、それとも汚らわしいものと映っているのか、私にはわからない。だが、そんなクソの山はいっぺんに捨てたほうがましだ。
グレーバーはほんとうの悪に近づくことすらできなかった。それは彼の精神の奥深くに根を下ろしていたのである。
近況報告
先日、本を一冊書きあげて、新人賞に応募した。結果はまだわからないが、日の目を見ることを願っている。
その息抜きとリハビリを兼ねて、本稿を書いた。『ブルシット・ジョブ』は以前から気になっていたのだが、いざ読んでみると、読ませる内容になっている。評判通りの良書で、私の筆にも熱が入ってしまった。
本書に出てきた「新しい封建制」という概念は、私がつねづね提唱している「世界政府」と関係があるように思う。デジタル封建制が暗黙の封建制、比喩としての封建制だとすれば、世界政府は明示的な封建制であり、ある意味で封建制のオルタナティブだということができる。こういう形で世界政府論を定式化することができないか、考えてみたい。
私の仕事がどこに向かっているのか、だんだんわかってきた気がする。
巨大IT企業は新自由主義を利用して新しい封建制を作ろうとしている。そこで、こうした試みを破壊する手段が必要になる。私が提供するのは新自由主義を破壊する道具である。ただしそれは、新自由主義だけでなく、あらゆる自由主義を破壊する杖である。
監視資本主義は法律を悪用して個人情報を収集し、世界の富を独占している。そこで私は監視資本主義を破壊する手段を提供する。ただしそれは、プライバシー・ポリシーの一方的な押しつけだけでなく、法治主義そのものを破壊する。
その上に打ち立てられるのは絶対的な封建制、すなわち世界政府である。世界政府は民主主義を否定し、法治主義を否定し、世界から国境を消滅させる。また、税金を廃止することによって資本主義を否定する。世界全体をひとつの政府が支配するとき、もはや税金は不要となるのである。その代わりに、穀物生産に基づいた正真正銘の封建制が実現される。これにより絶対平和の礎が築かれることになる。
これから人類は、デジタル資本による封建制と世界政府による封建制の、二者択一を迫られるようになるだろう。
こんなシナリオ、どうかな。
最後に。
近々、『記号心理学概論』という本を販売する予定です。人間を入出力をそなえた回路とみなし、その精神を論理回路としてモデル化する画期的な論考になっています。本書の特徴はその結論が必然であること、すなわち、それが仮説ではなく事実であることです。また、本稿で触れた西洋文明と道徳の問題についても議論しています。
これまで私の本を購入してくださった方々、ほんとうにありがとうございます。励みになります。これからもよろしくお願いいたします。