現代の常識「GDP≠国力」 Part2

前回の記事をPart1とした

Part1では、第三次産業が発達しても、戦争には勝てないことを指摘した。国力に寄与するのは第二次産業までであり、第三次産業は国力に寄与しない。第一次産業が兵を養い、第二次産業が兵器を養う。重要なのはGDPではなく、戦う力があるかどうかだ、と。

しかし、これは対外的な国力の話である。第三次産業の発達は、これとは少し次元の違う話で、ひとくくりに考えるべきではない。そこで、Part2では、第三次産業の価値を考えてみたい。

第一次、第二次産業の成果物を量で計ることには一定の合理性があるといえる。なぜならば、それらは国民生活の豊かさに直接かかわってくるからである。しかし第三次産業に含まれる、医療や教育という仕事を量に換算することに意味はない。それを計ることで何かが明らかになるわけではないからである。人間を作るという仕事は、第一次産業よりも第二次産業よりも重要な仕事であるが、だからこそ、それらを同列に扱うべきではない。

問題は、第一次、第二次産業によって生産された商品を、医師や教師も買い求めて生活しなければならないという点にある。ここで仕事の価値が計られることになる。あなたの仕事にはお米何キロ分の価値があるのか、ということを我々は問われているのである。その価値決定のプロセスを「市場に任せる」ということが資本主義である。

国民が教育に支払う対価、医療に支払う対価は、市場のプロセスによって決定される。だが、教育の価値を計ることなど、いったい誰にできるのだろうか。学問を知らない人間に学問の価値などわかるわけがない。教育の価値を知っているのは、その教育を行う教師たちだけである。だから、他人がそこに値段をつけるのはナンセンスである。

何が言いたいかというと、我々は助けあうことを学ばなくてはならない。その人がやっている仕事の価値がわからなくても、その人が苦労してその仕事をやっているのなら、彼を助けてやればいい。その仕事の価値をお金で計る必要などまったくない。

我々がお金という尺度を必要とするのは、他人のすることに無関心でいるためである。我々はふだん、あの人の仕事にどんな価値があるのだろうか、と考えることをしない。なぜならば、それはお金という単位によって客観的に示されているからである。彼の仕事の価値を決めるのはあなたではなく、彼に支払われるお金であり、それは市場のプロセスによって自動的に決められている。だから我々は、他人の仕事の価値について考えることをしない。我々の社会は、我々が他人に対して無関心になることを求めているのである。それが資本主義である。

その資本主義の情念は、民主主義の理念とみごとに通じあっている。民主主義もまた、個人の意志を超越した大きな「プロセス」によって集団の意志決定が行われるという思想であった。そこでは我々は、価値判断の主体ではなくなり、判断を形成するための一つの部品にすぎなくなる。集団の意志は個人の意志を集計した結果として示され、そこには個々の人間が持っていた固有性は全く反映されなくなるのである。

これは、個人の責任が塗りつぶされてしまうことを意味する。というのも、責任が生じるのは、その判断が間違っていた場合であるが、集団の判断が間違っていた場合、それを計算するための部品にすぎない個人の責任を問うことはできないからである。

たとえば、aという政策を掲げる大統領候補Aと、bという政策を掲げる大統領候補Bがいたとして、A候補の得票数が1000万票、B候補の得票数が500万票で、A候補が勝利したとしよう。しかし、A候補の政策には間違いがあり、その国はA候補が作り出した負の遺産に苦しめられることになったとしよう。

その結果に対して責任を負うのは誰か。もちろん、全国民である。A候補に投票した国民だけではなく、B候補に投票した国民も、全体の意志決定に関与したという点で、平等に責任を負っているのである。これは個々の判断の真偽を問わないというに等しい。民主主義というプロセスの結果、間違った判断が生じてしまったとしても、その責任を誰かが負う必要はない。なぜならば、みんなが平等に責任を負っているからである。それは仕方のないことであり、諦めるしかないことであり、その無責任さこそが自由なのである。こうして我々は真の自由を奪われているのだ。

我々は何の判断も行わなくてよいし、何の責任も負わなくてよい。難しいことは「市場」や「民主主義」というプロセスが勝手に決定してくれる。これが民主主義と資本主義に共通するルールである。あなたの仕事の価値は、市場のプロセスが勝手に決めてくれる。だから、それに文句を言うことは許されないのだ。

よく聞く話として、日本人は従順すぎるといわれる。いわく、消費税がこれだけ上がっているのに、日本人は文句ひとつ言わない。賃金が全く上昇しないのに、日本人は文句ひとつ言わない。とても従順である。日本では、賃上げ交渉のために労働組合に入ろうものなら、ほかの従業員から腫れ物に触れるような扱いを受けるという。誰も上の人間にたてつこうとしないのだ。それはなぜか。

それが資本主義のルールだからである。勘違いしてはいけないのは、このルールを作った欧米人以上に、日本人のほうがルールに従順であるということだ。お金がすべてを決める。そして、その仕事にどれだけのお金が支払われるかは、我々の意志とは関係なく決められる。だから、それに文句を言うことは許されない。

日本人は、正しいルールがあると信じている。一方で、欧米人は正しいルールがあるとは信じていない。言い換えると、自分たちの主張に責任を持たないのである。適当なことを言うだけ言って、まったく責任を取らない。たしかに資本主義は正しいと私は言ったが、それを信じたのはあなたの責任だ、という態度である。こういう人間を日本ではクズという。そのクズのルールにしたがっているから、ものごとがうまくいかなくなる。人間は自分のしたことに責任を持たなければいけないが、その責任という観念を欧米人は持っていない。だから、彼らの言うことを信じてはいけないのである。

欧米人は自分で作ったルールを常に否定しようとする。それをイノベーションと呼ぶ人もいるが、もっと簡単にいうと無責任である。東浩紀はこれを「訂正可能性」と呼んで称賛しているが、それはまったく称賛に値するものではない。それはあらゆる理不尽の根源として否定されるべきものである。

ひとりひとりの人間が、この世界のすべてに対して責任を持たなければならない。それが人間性というものである。それを知らなかったから、西洋文明は没落する運命にあるのだ。民主主義とは人間性の否定である。

我々は決定的に自由を奪われている。

自由とは、この社会に対する決定権である。我々はその決定権を、民主主義や資本主義というプロセスにゆだねてしまっている。我々に自由があるとすれば、それらの巨大なシステムのはざまで、ちょっとおどけてみせることくらいである。

ちょっとしたユーモアでまわりを温かい気持ちにさせる。それが人間に与えられた最大限の自由であり、社会をコントロールする自由は永遠に奪われたままである。我々はこのような態度を、この社会のいたるところに見出すことができる。我々は、自分に責任があると考えてはいけない。自分に何かしらの力があると考えてはいけない。私は無力であり、無責任なのだと信じなければならない。それが民主主義の教義である。

ゆえに、民主主義こそが悪である、と私は述べる。

これが私の思想である。私は全霊をもって民主主義を潰すことを誓う。

民主主義というより、民主=資本主義といったほうが正確かもしれない。この二つの思想は密接に関わっているから。民主主義を否定するならば、資本主義も同時に否定される。なぜならば、所有権は民主主義によって保障されているからである。日本国憲法第二十九条に、「財産権は、これを侵してはならない」とある。ここに資本主義の起源がある。

資本主義の持つ強制力は、民主主義にその起源がある。というのも、民主主義ほど巨大な暴力装置はないからである。これに関しては『近代の終焉』という著作で明らかにするつもりである。乞うご期待。

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