ジェンダー問題は錯覚
第二次トランプ政権がジェンダーの多様性を否定した、ということが話題になっている。人間の性別は男か女か、どちらかしかありえないのだという。この話題は以前どこかで書いたと思うが、あらためて記しておく。
生き物の性別は染色体によって決まるといわれる。人間には23対の染色体があり、23対目が性染色体である。女性はXX、男性はXYの染色体を持っている。ここで、男性のY染色体は基本的に不活性である。つまり、ほとんど使われることがない。したがって、女性はX染色体を二本持っているのに対して、男性はX染色体を一本しか持っていない、ということになる。この量の違いが男女の違いである。
染色体とはDNAであり、タンパク質の設計図である。男性はその設計図を一枚しか持っていないが、女性は二枚持っている。設計図を二枚持っているということは、より多くの部品をそこから作れるということになるが、部品の数は必ずしも二倍になるとは限らない。同じ設計図からたくさん部品を作る人もいれば、少ししか作らない人もいるからである。つまり、ムラができる。
たとえれば、男性はふつう盛りのごはんで、女性は大盛りのごはんである。通常は、女性のごはんの量は男性の2倍あるが、その中間の人もいる。つまり、1.5倍盛りのごはんや、1.8倍盛りのごはんなど、無数の中間状態が存在するのである。男女の違いは質の違いではなく、量の違いであるから、その中間にグラデーションが存在しうる。
その中間状態を表現するために、リベラリストはLGBTという分類を作り出した。男女プラスLGBTで、都合6つの分類ができたわけである。だが、それだけでは足りなかった。LGBT+Qといって、Qが必要になったのである。このQとはなにかというと、クィアであり、簡単にいえば、その他、という意味である。分類に収まりきらないものが出てきたので、その他という分類を作ってしまったのだ。だが、その他という分類は存在しない。それは分類の失敗を意味している。
ここで我々が考えるべきは、言語の性質である。男、女、という単語を使っていると、我々は、その間に明確な境界線が存在するような印象を抱いてしまう。言語はデジタルな性質を持っているのである。しかし、上で述べたように、現実の世界はアナログであり、男女の間には中間状態が存在する。その中間状態を、人間の言語は捉えることができない。したがって、そこにギャップが生まれる。デジタルな言語によって、アナログな現実を正確に表現することはできないのである。ここに気づかない人たちが、ジェンダー問題に陥ってしまう。それは一種の錯覚である。
ジェンダー問題は言語の問題であり、言語に対する正しい認識を持つことができれば、この問題は解決する。すなわち、人間の言語は現実世界を正確に表現することはできず、そこにはつねにずれが存在するということである。そのずれを認識することができるかどうかが、知性の分かれ道となる。
簡単にいえば、金玉がついているのが男で、ついていないのが女である。それ以上の区別は存在しない。男女という言葉には、その程度の意味しかない。
世の中には、男みたいな女もいるし、女みたいな男もいる。男女の中間が存在するということは、街を歩いていれば誰にでもわかることである。そこにあえて名前を与える必要はなく、いろんなひとがいるね、で片づけてもよいのである。それが知恵というものじゃないか。
有性生殖の謎
ついでに、性とは何か、という話もしておこうかと思う。
地球上の生き物の多くは有性生殖のしくみを持っている。オスとメスがいて、交配することで子供を作る。動物だけでなく、植物もこのしくみを備えている。
ところが、なぜ有性生殖が存在するのか、という問題に関しては、明確な答えが与えらえれていない。通俗的には、男女の遺伝子を掛け合わせて、優秀な子孫を得るためのしくみだと言われる。つまり、有性生殖を行うことで、生存に有利な形質を持った子孫を残せる、という意見である。
生物学的には、この説明は誤りである。というのも、有性生殖であれ、無性生殖であれ、個体の生存に有利な突然変異が発生する確率はまったく同じだからである。ゆえに、どちらかがより優れているとは言えない。
たとえば、無脊椎動物の一種にワムシという生き物がいる。ワムシの仲間にはオスが存在せず、メスが自分のクローンを生むことで子孫を残している。ワムシは、このような生活を3億年前から続けているのである。もしも、無性生殖が有性生殖よりも不利なのだとすれば、ワムシはとっくの昔に絶滅しているはずだ。しかし、彼らがいまも元気に暮らしているということは、無性生殖が有性生殖に劣らないという生きた証拠である。
ワムシの例からわかるように、子孫を繁栄させるだけなら、無性生殖で十分である。有性生殖は何のとりえもない、無駄なしくみである。私は、ほんとうに有性生殖は無駄なものだと考えている。そこに何らかの意味を見出そうとすることが間違いである。
たとえば、孔雀には美しい羽根飾りがあり、鹿には大きな角が生えている。羽飾りを持つ孔雀はオスであり、角を生やした鹿もオスである。それらはメスに対するアピールのために発達した器官なのだ。
鹿の角は、けっして個体の生存を有利にするものではない。鹿は頭を下げて草を食べるので、あんな大きな角が生えていたら、首が痛くなってしまう。個体の生存にとって、むしろ不利である。孔雀も同様で、天敵から逃げるときに、大きすぎる飾り羽根は邪魔になるだろう。
つまり、性があるせいで、無駄なものが増える。鹿の角や孔雀の羽根のように、無駄だけどかっこいいものや、無駄だけど美しいものが増えてゆく。我々人間がそれを見てかっこいいと感じるということは、人間以外の生き物もそれをかっこいいと感じているはずだ。そのようにして、生き物はみな性を楽しんでいる。
セックスは無駄を楽しむために存在する。セックスがあるおかげで人生が楽しくなる。それが、進化生物学的な観点から見たときのセックスの役割である。
はっきりいって、有性生殖はダーウィニズムの範疇を越えている。これは淘汰によって説明できない現象である。私の仮説では、有性生殖に何らかの有用性があるから、多くの生き物が性を備えているわけではなく、結果的に性を持つ生きものが増えただけだ。有性生殖には種分化を加速させる機能がある。
たとえば、ユリの花はたいへん奇妙な形をしている。花弁の付け根が細長く伸びて、筒のようになっている。たしか、ユリの花粉を運ぶのはハエだったと思うが、特定の種類のハエだけが花粉のある場所にたどりつけるように、ユリは花の形を進化させたのである。そして、ユリの進化に呼応して、ハエのほうでも進化が起こり、ユリの花に特化した新しい種が生まれた。これを共進化という。
ユリには雌花と雄花があり、受粉によって種を作る。これは有性生殖である。したがって、有性生殖があるおかげで、新しい種が誕生したことになる。このように、性には新しい種を生み出す効果があり、これにより、性を持つ生きものが増えたのである。いま、性を持つ生きものが地球上に満ち満ちているのは、有性生殖がなにかの役に立つからではなく、有性生殖が種の数を増やしたからである。
これは決してダーウィニズムを否定するものではないが、自然淘汰によらずに生物の機能を説明するものとして、超ダーウィニズム的な仮説といえるだろう。
性淘汰により、個体の生存に有利とはいえない独特な形質が進化し、その形質がその種を元の種から区別する指標となり、新しい種が生まれる。このプロセスにより、性を持つ生きものは種の数を増やし、勢力を拡大してきた。もちろん、無性の生き物と競争しているわけではない。ただ単に、有性の生きものが爆発的に増加しただけである。
この世界がこんなにも豊かなのは、性があるおかげだ。色とりどりの花々や、鮮やかな鳥の羽など、世界に色彩を与えたのは性の力である。セックスがなければ、この世界は単調で味気ないものになっていただろう。
思えば、生命そのものが無駄である。存在するだけなら石ころでよい。なぜ生きる必要があるのか。必要はないし、意味もない。ただ、生きることを楽しんでいる。セックスはその生を豊かにし、より味わい深いものにしてくれる。それは生き物のお楽しみなのだ。
近況報告
最近、親知らずの治療のために入院していた。ひまだったので、色々考えごとをした。
幸い、抜歯は無事に終わったのだが、上の親知らずを抜いたときの穴が、鼻の穴とつながってしまった。だからいまは、口に水を含むと、鼻から水が出てきてしまう。まるでびっくり人間である。来週、抜糸のために再び病院に行くので、そのときに相談しようと思う。
手術後は鼻をかむなと言われていたのに、ついつい一度だけ、鼻をかんでしまった。そのときに穴が開いてしまったらしい。皆さんも、親知らずを抜くときは気をつけてください。