民主主義と復讐

人間は生まれつき、他の人あるいは世界中の人々と平等に、完全な自由と自然法の定めるあらゆる権利と特権を無制限に享受する権限とを与えられているのだから、彼の所有権、つまりその生命、自由、財産を他の人による侵害や攻撃から保全する権力を生まれながらに持つだけでなく、他の人が自然法を侵したときにはそれを裁き、当然にその罪にふさわしいと信ずるままにこれを罰する力、犯罪が凶悪であり死刑が必要と思われるときには死刑にさえ処しうる力、を生まれながらに持つのである

ジョン・ロック『統治二論』第二編第七章第八十七節

ジョン・ロックは、自然状態における基本的な権利として、他者を裁く権利を認めた。すべて人は、不当なことを行う他者を、自己の力において罰する権利を持つ。この権利には際限がなく、極論をいえば、自分以外のすべての人間を殺害することも許される。ロックの議論に忠実に従うならば、自然状態において、人間にはその権利があるといわねばならない。

こうした論理が最も顕著に現れるのは、戦争においてである。太平洋戦争において、日本軍は連合国の植民地を占領し、イギリス、アメリカ等の利益を侵害した。この戦争は一見、これらの奪われた利益を取り戻すための争いに見えるが、本質は異なる。この戦争は連合国による、自然状態における裁判権に基づく、私的制裁なのである。

この戦いをとおして、連合国は自分たちの利益に一言も言及していない。ただ交戦国の政府に対して、「完璧な罰と報復を課す」ことを宣言しただけである(カサブランカ会談)。

ロックによれば、独立した国家の君主や政府は互いに自然状態にある。ゆえに、そこでは無制限の罰と報復が許される。そこには弁明の余地もなく、口頭弁論も必要ない。理性によらず、ただ感情のままに暴力を振るうことが許されるのである。

一部の人々が言うには、日本はドイツと同盟関係にあったから、罰を与えられて当然である。ドイツ人は、ホロコーストによって罪もないユダヤ人数百万人を殺害した。この大犯罪を擁護する立場にあった日本人にも、相応の罰が与えられるべきである。つまりホロコーストを止めるために、500万人以上の日本人が殺される必要があった、と彼らは言う。

もっと正確にいえば、ホロコーストを止めるためではなく、ホロコーストに加担したことに対する罰として、多くの日本人が殺害されたのだ。というのも、日本人の殺害とホロコーストの中断の間に直接的な因果関係がないことは明らかであるから。

このように、各国家には無条件に他国家を罰する権利が与えられており、それは自然状態において、すべての人間に他者を罰する権利があることの帰結である。しかしながら、ロックの議論では、裁く側に非があるかないかは問題とされない。たとえば、ある人が強盗の結果として得たものを、さらに他の人に盗まれた場合、彼にはその盗人を殺す権利がある。盗まれたものを取り戻すためではなく、純粋に罰として、盗人を殺す権利があるのだ。仮に盗品がすでに消失していたとしても、その権利が損なわれることはない。

これは一見すると不合理な結論だが、連合国にとっては自明の理であった。

太平洋戦争を考えるときには、二つの犯罪が重なり合っていることに注意しなければならない。一つ目は、連合国によるアジア侵略という犯罪である。連合国はアジア人を暴力によって弾圧し、不当な支配を続けていた。その支配に抗って独立運動を行う人々に、さらに過酷な制裁を加えていたのである。二つ目は、日本軍による連合国領土の侵略である。日本軍は、連合国が植民地として統治していた地域を占領し、その独立を宣言した。

日本政府は、少なくとも公式には、連合国によって盗まれたものを本来の持ち主に返したのだと主張している。アジアをアジア人の手に返した、ということである。しかし一方で、日本軍の行為は連合国の利益を侵害するものであるから、連合国が私的裁判権の行使として日本に罰を与えようとしたことは、社会契約の論理からいえば当然のことであった。

ここでも、これはあくまでも罰であり、利益を目的としたものではないことに注意しなければならない。植民地の解放は日本軍による占領の時点でほぼ確実となっているし、また連合国自身も、「征服された人民が再び彼らの運命の主人となること」が戦争の目的だと述べているので、すでに植民地の喪失を受け入れているといってよい。このように、取り戻すべき利益がすでに失われているにもかかわらず、なおも戦争をつづけたということは、この戦争が利益のためではなく、私的制裁のため、すなわち復讐のために行われた純粋な暴力だということを意味している。その暴力を、彼らは正義と呼んでいるのである。

復讐こそが正義である。連合国にとって、太平洋戦争は、それ自体が正義の執行であったといえる。それならば、なぜ彼らは東京裁判を必要としたのだろうか。正義はすでに執行されているのだから、このうえに重ねて正義を行うことは、不正義のそしりを免れないのではないか。

ここに民主主義の弱点がある。リベラリスト自身が、私的制裁としての復讐を正義と呼ぶことに抵抗を感じているのである。つまり、ロックの議論は真実ではないと彼らもうすうす感じていた。そのうしろめたさをごまかすために、あえて裁判という形式を用意する必要があった。リベラリストにとってなじみ深い、裁判官と検察、被告、証人という普通の裁判の形式を模倣することで、自分たちのしたことを正当化できると考えたのだ。この意味で、東京裁判は一種の劇である。太平洋戦争における連合国の正義を、一つの劇として衆目に晒すことがこの裁判の目的であった。

現代社会における行き過ぎたポリティカル・コレクトネスと、それに対するカウンター・カルチャーの隆盛を見るにつけ、民主的な正義が復讐にすぎないことをまざまざと感じさせられる。民主主義に特有の理性の欠如と感情的な言動は、社会を混乱させるだけでいかなる秩序も生みださない。

ロックによれば、自然状態から社会が生みだされるのは、社会契約を通してである。社会契約によって共同体が構成されると、自然状態における裁判権は共同体に吸収され、各人は自己の判断で他者を裁くことができなくなる。彼は共同体の法に従って、共同体の司法制度を通して、犯罪者を裁かなければならない。そうしないと、秩序が保てないからである。

そんな不利益を被るよりは、自然状態における裁判権を維持したほうが得なのではないか、というと、そうではない。というのも、個人よりも共同体のほうがより大きな暴力を行使できるからである。共同体と、共同体に属さない個人とは自然状態の関係にあるから、共同体はその個人に対して無制限に暴力を振るうことが許される。しかし、国家の軍隊と一個人の武力とでは比較にならないので、自分の身を守るためにはどこかの共同体に属するしかない。そして、その共同体の中では、私的な裁判権を行使するわけにはいかず、彼は共同体の司法判断に服することになる。

こうして、社会契約から私的な裁判権の制限が導かれる。

このような迂遠な議論がなぜ必要なのか、私には合点がいかない。そもそも、自然状態を認めなければよいだけではないのか。悪いことをしてはいけないといえば、それですむ話ではないか。

逆にいえば、悪いことをしてはいけない、ということを無条件に主張しないかぎり、どれだけ議論をこねくりまわしても、正義を発見することはできないだろう。そこに見出されるのは単なる暴力と自己正当化だけである。民主主義者の不毛な議論は、ほんとうの正義を見失わせるだけの偽善であり害悪である。

暴力による正義の押しつけあいが民主主義の本質である。その戦いに勝つために、一度は矛を収めなければならない。それは、より大きな暴力を発揮するためなのである。民主主義による平和は、戦争の前触れにすぎない。

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