たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
これは法蔵菩薩の第十八の誓願、至心信楽の願である。
もしも、わたしが仏になったあとに、ある人が心から浄土に生まれたいと願ったときに、彼が浄土に生まれないならば、わたしは仏にならない。ただし、大罪を犯したものと仏法を誹謗するものを除く。
法蔵菩薩はこの願を立てて修行を行い、阿弥陀仏になったとされる。
ここで、不思議なことがある。
大乗仏教では、ひとりの仏はひとつの仏国土を主宰するとされる。だから、阿弥陀仏の仏国土である極楽浄土が生じるのは、法蔵菩薩が仏となったあとである。法蔵菩薩が法蔵菩薩でいるあいだは、まだ仏ではないので、極楽浄土は生じていない。だが法蔵菩薩は、この願が成就するまでは、自分は仏にならないといっている。その願のなかに、浄土が現れるのである。
いったいどうやって、存在しない浄土に往生するのだろうか。
ひとつの解釈として、法蔵菩薩が阿弥陀仏になったときに、すでに願は叶えられたのだ、と考えることができる。つまり、未来において、すべての念仏者が浄土に往生することが決まっている、という解釈である。
しかし一方で、念仏を唱えたものが実際に往生できるかどうかは、彼が往生するまではわからない、という考え方もできる。つまり、阿弥陀仏がその力によって念仏者を浄土に生じさせることによって、はじめて誓願が叶えられる、という考え方である。
未来が確定しているかどうかは、その未来が来てみないとわからない。法蔵菩薩の誓願は、彼が言及する未来のときになってはじめて、それが叶えられたかどうかが判明するのである。だからそれまでは、彼はまだ仏になれないし、したがって浄土も存在しないことになる。
かりに私が念仏を唱えたとして、私が浄土に往生できるかどうかは、私が死ぬまでわからない。私が往生することではじめて、法蔵菩薩の誓願が満たされたことが証明され、浄土が生じる。私が往生するまでは、まだ浄土は存在しない。したがって、私が浄土を作ることになる。私だけでなく、すべての念仏者は、彼自身の力によって浄土を生じさせるのである。ここにおいて、他力と自力は一致する。
誓願は原因であり、浄土は結果である。だが、結果がなければ原因は生じない。ここでは因果がねじれている。そして、それが因果の本質である。現実は言葉より精妙であり、言葉でとらえることのできる因果は、ほんとうの因果ではない。現実は言葉を超えたところにある。だから法蔵菩薩は言葉によって誓いを立てたのである。それは言葉を超えるための言葉であり、因果を超えるための因果である。
浄土も如来も空である。だから、あるかないかはどうでもいい。問題は、それを信じることで、その人の人生にどんな変化が生じるか、ということである。その変化が価値のあるものならば、信じたほうがいい。だが、それがどんな価値であるかは、信じてみなければわからない。もちろん、私はすでに知っている。しかしあなたはまだ知らない。この場合わたしにいえることは、ただ信じろということだけである。
冒頭に引用した至心信楽の願は『無量寿経』のものである。この願の最後に「ただ五逆と誹謗正法とをば除く」とある。五逆と誹謗正法のものは往生できない、という意味だが、『観無量寿経』には、五逆のものでも往生できるという記述がある。五逆とは、僧侶を殺したり父母を殺したりという、単に重い罪のことで、このような罪を犯したものも、阿弥陀仏を信じれば往生できるという話である。
五逆と誹謗正法という例外のうち、五逆が往生できることは証明された。しかし、誹謗正法のものに往生する見込みはない。阿弥陀仏を信じるものが往生するのだとすれば、誹謗正法、つまり仏を信じないものが往生できるはずはない。ゆえに、これは本願の言い換えにすぎない。信じないものはどうにもできないのだ。
信じるものは救われる。
これはキリスト教と似ているようで、ちがう。なぜなら、仏法とは諸悪莫作である。悪いことはするな、というのが仏法であるから、仏法を信じるということは、悪いことをしないということである。五逆が往生できるのは、その罪が許されるからではない。ただ、仏を信じるようになれば悪いことをしなくなるからである。さとりは未来にある。だから、過去は問わない。
諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教。
悪いことをしないことがさとりである。