株式会社の廃止

日本の会社法は、有限責任会社という制度を設けている。社員は出資額を限度として会社に責任を負う、という制度である。

いわゆる株式会社もこれにあたる。会社は株式を発行し、株主となる者は、株式と引き換えに会社に金銭を払い込む。これを資本金として会社を運営するのである。

日本では従来、会社は経営者のものとされてきた。だが最近は、株主こそが会社の所有者であるから、会社は株主の利益を追求するべきだ、という思想が流行っている。これを株主資本主義といい、会社の経営に積極的に介入する株主も増えているという。経営者からすれば面白くない話だが、日本の会社法はこの潮流に合わせて改正を重ねており、経営者が会社から切り離される一方、株主の発言権は強化されている。

しかし、株主が会社の所有者だというのは、少し大げさな話である。

たとえば、2011年の東日本大震災のとき、東京電力の福島原子力発電所が事故を起こした。このとき東京電力の株価は暴落し、事故の3ヶ月後には10分の1まで値下がりした。そのぶんだけ、株主たちは損をしたことになる。しかし、彼らはそれ以上の責任を負わないのである。事故の後始末をしたのは、東京電力の経営者や国であり、株主は何もしていない。

もしも、あなたの飼っている犬が他人にかみつき、けがをさせてしまったら、それはあなたの責任である。これが民法の原則である。だが会社法はこの原則を曲げて、株式会社の所有者は会社の行為に責任を負わない、と定めてしまった。これがよくない。

会社が株主の利益のために行動し、その結果として第三者に損害を与えたのであれば、その責任は株主が負うべきである。その責任をすべて経営者に負わせたいのであれば、株主は会社の経営に口を出してはならない。

一方で、従業員はというと、会社の経営が傾いたせいで最も損をするのは彼らである。というのも、経営者の会社に対する責任は一定の場合に免除できる、という規定が会社法に存在するからである。株主は会社の損害に責任を負わず、経営者も責任を免除され、最も立場の弱い従業員にしわ寄せがくることになる。にもかかわらず、日本型の終身雇用が経済成長を阻害していると糾弾され、被雇用者としての立場すら維持するのが難しくなっている。

会社法はたぶん、無限責任会社を会社の本来の形としている。社員は会社のしたことに連帯責任を負い、会社の負債を自分の財産で弁済しなければならない。ここで社員とは、会社に出資をした者のことである。社員は会社に労働力を出資してもいいし、金銭を出資してもいい。無限責任会社ではふつう、社員=従業員となる。

一方で、有限責任会社の場合、社員と従業員は分離する。会社の出資者が社員と呼ばれ、経営者は、社員とは別に、会社の事業のために従業員を雇うことになる。これが日常用語でいう会社員である。社員=株主≠従業員である。

有限責任会社では、社員は出資した財産の価額を限度として責任を負うことになる。たとえば、あなたがある会社の株を100万円で買ったとしよう。その会社の株が10万円まで値下がりすれば、あなたは90万円分の損をしたことになる。つまり、100万円以上の損をすることはない。かりに、その会社が第三者に損害を与え、裁判で10億円の賠償金の支払いを命じられたとしても、そして、その会社の株式の総額が1000万円であり、あなたが全株式の10分の1を保有していたとしても、賠償金のうち1億円分を支払う必要はない。株価が下がる前に売り抜けば、損害を数万円に抑えることも可能である。会社の所有者であるあなたは、会社の責任から逃げ切ることができるのだ。

このように見ると、無限責任会社は民法の規定に忠実であり、これを会社の基本的な形とみなすのは自然である。一方で、有限責任会社は、社員の一般社会に対する責任を矮小化し、社会秩序の存立を危険にさらしているといえる。

言い換えれば、会社法は民法の崇高な理念を骨抜きにし、無責任な行為主体をいたずらに増やしてしまったのである。会社法によって資産家への責任追及が制限される一方、その資産は民法によって完全に保障され、資本の暴走が起きる土台は整っている。これで問題が起きないほうがおかしいのだ。

我々の社会はより無責任なほうへ向かっている。水が低きに流れるように、人間性の堕落はとどまるところを知らない。民主主義も法治主義も人権思想も、人間の愚かさを加速させるだけだ。有限責任会社という制度を廃止すれば、一定の歯止めをかけることはできるだろう。

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