司法の問題点

最近、司法のあり方に疑問を感じるようになった。

私はもともと、法治主義には否定的である。法による支配とは暴力による支配であり、これが帝国主義を促進してきた側面もあると考えている。私はこれに代わる政治理念として、徳治主義を提案している。これについては別の記事にゆずる。


たとえば先日、爆笑問題の太田光が、週刊新潮を相手に裁判を起こしたという報道があった。太田氏の父が、日本大学に金銭を渡して本人を裏口入学させた、という記事を週刊新潮が掲載し、これに対して太田氏が名誉棄損を訴えた。

この記事はかなり悪質である。というのも、本人の父が、本人に知らせずに裏口入学をさせたのだとすれば、本人がそれを知らないと言っても、何の証拠にもならない。さらにその父はすでに故人なのだから、裏口入学が事実ではない、ということを証明できる人間はいないことになる。一方で大学側の関係者から、裏口入学の事実がなかったことを確認するためには、全ての関係者から証言を得なければならないことになる。これは悪魔の証明に近い不可能事である。

つまりこの記事は、本人が反論できないように、うまく考えられた嫌がらせにすぎない。こういう悪質な記事を、中立の立場でしか裁けない現在の司法制度は、おかしいのではないか。

このような場合、出版社側は、取材源を公表できないという立場をとるが、それは司法に対する侮辱ではないのか。これについて出版社を擁護する人は、報道機関には、政治の嘘を暴くという社会的な責務があるのだから、そのために報道の自由が認められるべきだ、と主張する。しかし、自分自身が嘘をつくような出版社に、政治の嘘を暴くことができるのだろうか。

報道機関そのものが嘘をついているのだとすれば、彼らに社会正義を実現することなどできるはずがない。報道の自由とは、嘘をつく自由ではない。彼らは、自分たちが嘘をついていないことを証明しなければならない。

このことを指摘する人は少ないが、自由と嘘は表裏一体である。嘘をつくことなしに、自由を実現することはできない。ある意味で、自由とは嘘をつくことである。


もしも私が裁判官なら、出版社が記事の事実性を証明できない場合、その出版社に業務停止命令を出すだろう。もちろん現在の司法制度では、そのような命令を出すことはできないのかもしれない。そうだとすれば、そのこと自体が問題である。

法を作る機関と、法を運用する機関が分かれているということは、不合理である。法は、法そのものでは用をなさない。それを運用する人間がいて、はじめて意味を持つのである。ゆえに、法の作成とその運用とは、一体のものでなければならない。その二つが分裂していたならば、どこに問題があるのか分からなくなってしまうだろう。

司法と立法は分裂すべきではない。これらは一体でなければならない。三権分立は、責任の所在をあいまいにするための仕組みである。責任をたらいまわしにして、どこに問題があるかを分からなくするためのものである。

三権分立は権力の濫用を防ぐための仕組みだ、という人もいるが、実際には、三権分立が実現されている国家においても権力の暴走は起こりうる。このことは、太平洋戦争前夜のアメリカを見ればよく分かる(リンク先参照)。三権分立によっても、権力の濫用は阻止できない。そうだとすれば、責任の所在をあいまいにするという、デメリットしか残らないことになる。

一方で、三権が一体となっているならば、少なくとも責任の所在は明らかにできる。そしてこの場合、権力者の責任を追及する仕組みは必要なくなる。なぜならば、誰に責任があるのか、はじめから分かりきっているからである。ここでは報道機関は必要とされない。報道機関が必要とされるのは、責任の所在をあいまいにする、三権分立という政治制度の下においてのみだと言える。


嘘をつくことは罪である。嘘をつくことは悪である。このことほど、現代社会において、ないがしろにされていることはない。というのも、我々はヨーロッパ諸国の真似をしているが、ヨーロッパにおいては、嘘をつくことは罪ではないからである。

それはなぜかというと、イエスもマホメットも嘘つきだからである。実際には神などいない。そのいないものを、いると言い張ることによって、ヨーロッパ社会の倫理は成立している。だから、嘘つきを罰することなどできるはずがない。

モーセの十戒には「偽証をするな」という項目があるが、仏教では「不妄語(うそをつくな)」という。偽証をするなということと、嘘をつくなということは、似ているようで全く異なる。新潮社は、偽証はしていないかもしれないが、嘘はついている。キリスト教の倫理においては罪を犯したわけではないが、仏教の倫理においては罪を犯したことになる。現代社会において、前者の罪は裁かれるが、後者の罪は裁かれない。これは間違ったことである。

人は嘘をついてはならない。これは普遍的な原理である。これを実現しなければ、社会正義は実現できない。我々は、そのための社会制度を考えなければならない。

少なくとも、三権分立と法治主義は間違いである。これらは嘘つきを助長する制度である。同様に、自由主義も誤りである。

司法・立法・行政の分裂状態は解消されねばならない。権力は一か所に集められるべきである。そうでなければ、責任をもって政治を行うことはできない。

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