心について(2)

言語とは何か。脳科学によって言語機能を解明することは可能だろうか。

可能である。私が意味ニューロンの存在を仮定したのは、言語機能を科学的に理解するためである。

おばあさん細胞

おばあさん細胞の話を知っている人はいるだろうか。ある科学者が、被験者の脳内に、自分のおばあさんの顔を見たときにだけ反応する神経細胞があることを発見した。その細胞は、他の人の顔を見たときには全く反応せず、おばあさんの顔だけに特異的に反応したのだという。科学者はこれをおばあさん細胞と名付けた。

この話が意味することは何だろうか。おばあさん細胞はどのように機能しているのだろうか。実際の状況を考えてみよう。まず、おばあさんの顔に反射した光が被験者の目に入り、網膜細胞を刺激する。その刺激が電気信号に変換されて大脳皮質へ送られ、様々な処理を経たのちに、おばあさん細胞が反応する。

それから彼は何をするだろうか。彼がおばあさんの家に遊びに来たのであれば、元気に挨拶をするだろう。病院にお見舞いに来たのであれば、花を渡すのかもしれない。人間の脳内で起きる現象は全て、次にどんな行動をとるか、ということを決めるために生じている。おばあさん細胞が存在するのは、それによって彼の行動を決定するためである。

認識

心は存在しない。現実の世界を離れて、心の世界があるわけではない。心は現実の中にあって、我々を動かしている。あるいは、我々の行動こそが心である。人間の心は、人間の行動を決定するためにある。

オオカミは生の肉を好む。焼いた肉を食べるかどうかは知らないが、はじめは警戒するだろう。腐った肉は食べようとしない。彼らは肉の状態を認識している。ある肉がどのような状態であるかを認識したのちに、それを食べるべきかどうかを判断している。

すべての生き物は認識能力を持っている。植物は太陽の光を認識し、光の射すほうへ茎をのばそうとする。アメーバは、化学物質の濃度の違いから食料の存在を嗅ぎ取り、その方向へ泳ぎ始める。生き物が外界を認識するのは、生きるためである。そして行動するためである。

おばあさん細胞が意味していることは、ものの認識は特異的なものだということである。たとえば、リンゴとミカンを間違える人はいない。我々はリンゴとミカンを、非常に厳密に区別することができる。いったいその神経的な基盤はどこにあるのだろうか。なぜ我々は、異なるものを正確に区別できるのか。

ここで思い出すべきは、ものを区別するのは、行動を変えるためだということである。たとえば、電車で会った人がおばあさんだった場合と、学校の先生だった場合とで、我々がとる行動は全く異なるものになる。ここには入力と出力の関係がある。入力が認識で、出力が行動である。入力が異なれば、出力も異なる。

これは回路である。異なる信号が入力されたときに、異なる出力を出すように回路を設計しなければならない。そのときの一般的な条件は何か。

回路

一般的な条件は、二つの経路が交わらないことである。aという信号が入力されたときに、その信号が回路の中でたどる経路は、bという信号がたどる経路と、互いに異なっていなければならない。二つの信号は、決して同一の経路を通ってはならない。

aに対してAという出力が対応し、bに対してBという出力が対応するものとしよう。回路の中には、ここを通ればAという出力が生じ、ここを通ればBという出力が生じる、という地点が存在するはずである。その地点をそれぞれα、βとしよう。

そうすると、αを通る信号がそれまでにたどってきた経路は、βを通る信号がそれまでにたどってきた経路と、どの瞬間を切り取っても一致しないはずである。というのも、それらが一致する瞬間が一度でも存在するならば、その後の経路も一致しなければならないからである。その場合、両者の出力は一致してしまい、回路は失敗する。

これは「あみだくじ」を考えてもらうと分かりやすいだろう。あみだくじは、入力と出力が一対一で対応するようになっている。異なる入り口を選べば、出口も異なるものになる。このとき、もしも一度でも同じ線をたどってしまうと、同じ結果にたどり着くことはすぐに分かるだろう。縦の線でも横の線でも、同じ線を一度でも(同じ方向に)通ってしまったら、出口は同じものになる。ゆえに、入力に対して出力を異なるものにするためには、同じ経路をたどらせてはいけない、と言える。

これを人間の脳に置き換えてみよう。aというものを認識するときに脳内に生じる神経活動と、bというものを認識するときに脳内に生じる神経活動は、全く異なる経路をたどり、どの瞬間を切り取っても一致しない。これが、我々が認識しうるすべての事象に対して成り立つのである。

我々がものを識別するということは、それぞれのものに対して、我々が異なった行動をとりうる、ということである。実際には同じ行動をとることがあっても、異なった行動をとりうるのでなければ、それらを区別できているとは言えない。つまり、認識という入力に対して、異なる出力が対応しうるのでなければ、ものを認識できているとは言えない。ゆえに、我々が識別しうる限りのものについて、それらを認識するときの神経活動は、それぞれ異なる経路を通るはずだ、ということになる。

私の想像では、この経路のどこかにボトルネックがある。感覚器官から伝達され、大脳全体に広がるかに見えた神経活動は、やがて収束を始め、ある一つの細胞を通過した後で、出力に転じる。それがおばあさん細胞だったのではないか。つまり地点αである。

そしてこれは、おばあさんの顔に限らない。我々が識別しうるすべてのものごとについて、地点αが存在するのである。私はこれを意味ニューロンと名付けた。なぜならば、それは言葉の意味、概念に対応するニューロンだからである。これが言語脳科学の基礎である。

言葉の意味

意味ニューロンの活動は感覚器官に依存しない。たとえば犬の鳴き声を聞いたときに、我々はそれを犬だと思う。また犬の姿を見たときにも、それを犬だと思う。あるいは犬の体に触っただけで、それが犬だと分かる人もいるかもしれない。どんな感覚器官を通してであれ、ものの認識は成立しうる。ゆえに、どんな感覚器官から発せられた信号であっても、同一の意味ニューロンを発火させる必要がある。

おそらく、おばあさん細胞は意味ニューロンではない。というのも、この細胞は視覚刺激に対応するものだと考えられるからである。意味ニューロンには、感覚に依存しない普遍性がなければならない。

ここで、本当にそんなものがあるのか、と疑問に思う人がいるかもしれない。というのも、人間の認識はそんなにはっきりしたものではなく、ものを見間違えることもよくあるからである。ものの認識が、それほど厳密に行われていると考えなければならない理由はあるのだろうか。

そもそも私が意味ニューロンを仮定したのは、言葉のはたらきを明らかにするためだった。「犬」という言葉が、犬という生き物を意味しうるのは何故なのか。我々は犬を見たとき、これは犬だと認識する。一方、「犬」という文字を見たときにも、これは犬という生き物を意味しているのだな、と理解できる。この二種類の経験は、どのようにつながっているのだろうか。

実際に犬を見たときに、それが犬だと認識する経験と、犬という文字を見たときに、それが犬のことだと理解する経験の間には、何らかの関係がなければならない。その関係とは、どちらの場合も同一のニューロンが発火しているということである。実際に犬を見たときにも、犬という文字を見たときにも、犬という概念に対応する意味ニューロンが発火している。それこそが、言葉の意味を保証しているのである。

意味ニューロンの存在を仮定すると、人間の言語活動と脳の関係について、様々な仮説を立てることができるようになる。同時に人間の言語能力と、人間以外の動物の認識能力との関係についても、理解が深まるはずである。なぜなら意味ニューロンは人間だけでなく、動物にも存在すると考えられるからである。

私はまだ十分にこの理論を発展させたわけではない。また、たとえ意味ニューロンが存在したとしても、ただちに言語機能を説明できるわけではない。なぜならば、意味ニューロンは単語に対応するものであり、文法構造については何も語らないからである。これについては、また別に検討する必要がある。

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