道徳の起源(2)

道徳を「よい・わるい」という価値判断だと考える人がいる。難しい言い方をすれば当為の判断、そうすべきか否か、という判断が道徳だという考え方である。

それも間違いではないが、道徳は本質的に正誤の判断である。つまり、道徳の本質は無矛盾性である。

たとえば、人のものを盗むことはよいことだ、と言う人がいたとしよう。もしも自分のものを盗まれた場合、彼は何と言うだろうか。それはよいことだった、とは言わないだろう。それは悪いことだった、と言うはずである。このとき彼は矛盾を犯していることになる。

道徳を否定することは必ず矛盾を招く。彼は、不合理な発言をせざるをえない状態に追い込まれるのである。


たとえば、嘘をつくことはよいことだ、と言う人がいたとしよう。この発言そのものが矛盾である。もしも彼が本当に、嘘をつくことはよいことだと考えているのであれば、その発言も嘘でなければならない。そうすると、彼は何をよいことだと言いたいのだろうか。

嘘をつくことは悪いことである。これが道徳的な判断であり、無矛盾な命題である。道徳の本質は合理性であり無矛盾性である。

注意すべきことは、西洋人にとっての「道徳」は、このように合理性としてはとらえられないということである。なぜかというと西洋では、嘘をつくことは不道徳なことではないからである。モーセの十戒にあるように、人は偽証をしてはならないのであって、嘘をついてはいけないわけではない。

ある意味ではこの点に、カントの卓越性を認めることができる。カントの道徳はヨーロッパ的ではない。しかしそれは、いまだアジア的な道徳には到達していない。カントはあくまでも暴力を否定する。しかし、暴力を否定したところに道徳は成り立たない。

永遠の平和は、暴力の排除ではない。暴力をその中に取り込むことによって、平和は実現されるのである。暴力の排除はむしろ、悪の繁栄を意味する。


戦争を悪だと言う人もいるが、本当の悪とは嘘をつくことである。人をだますことである。

戦争の中で一番必要とされる能力は、人を信頼することである。仲間を信用することである。戦争のときに最も強力な武器となるのは、援軍の存在である。味方がいるということが、生き残るための不可欠の条件となる。ゆえに、人を信用できる人間だけが戦争を勝ち抜くことができるし、人を信用できない人間、人をだまそうとする人間は負けて死ぬことになる。

一方で、平和な時代に必要なものは、人をだます能力である。なぜなら平和な時代には、どんな問題も話し合いで解決することになるが、そこで一番得をするのは人をだますのが上手い人間、嘘をつくのが上手い人間だからである。ゆえに、平和な時代ほど悪が栄えることになる。

不正義を正すためには暴力をもってするしかない。なぜならば、嘘をつく人間と話し合いをしても、時間の無駄にしかならないからである。本物の悪人とは、人に暴力を強制する人間のことである。暴力によってしか正せない悪とは、嘘をつくことである。

正義とは、正しい意義ということであり、正しく言葉を使うことである。不正義とは、正しくない意義ということであり、間違った仕方で言葉を使うことである。正義とは本当のことを言うことであり、不正義とは嘘をつくことである。これがアジアの道徳である。

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