リベラリズムと議論の不毛さについて

「ネットは世の中変えないどころか、むしろ悪くしている」批評家・東浩紀が振り返る ネットコミュニティの10年

—— とすると、もう我々にはネットで議論することは難しいという感じなんでしょうか
いまはもう難しいですね。議論というのは本来、論点を抽出して、その勝敗を決めれば誰もが納得する結論が出るというものではないわけです。そもそも最初から意見は違うんだから。その最初の「意見が違うということ」の意味を深く考えず、勝ち負けだけ決めようとすると、不毛な罵倒合戦しか生まれない

自分はAが正しいと信じている。にもかかわらず、こっちには全然違うBが正しいと信じている人がいる。これはなんでなんだろう。まずはそう考えるのが大事なんです。説得や論破が大事なのではなくて、違う意見が存在するのはなぜなんだということを考えること。これは、違う考え方を持っている人に対する一種の尊敬の念がないとできないことです。

引用元:https://blogos.com/article/380108/

ここに引用したのは、東浩紀氏のインタビュー記事である。ここには議論に対する現代流の考え方が見事に集約されている。議論は勝ち負けを決めるためのものではないし、正誤を判断するためのものでもない。では、人は何のために議論をするのか。

彼は、人を理解することが議論だ、と言っているように見える。自分とは違う意見を持つ人が、どうしてそういう意見を持つに至ったのかを理解することが、人と議論をする目的なのだと。ここには、異なる意見を尊重するというリベラリズムの立場が表明されている。

だがそれによって、彼はむしろ、他者の意見を無価値なものとして切り捨てているようにも見える。なぜなら彼は、相手の意見が正しいかどうか、という判断を下すことを放棄しているからである。もしも彼が相手の話を本気で聞いているのであれば、その意見が正しいかどうかを判断しなければならない。さもなければ、彼は誠実であるとは言えないだろう。

ある意見に価値があるのは、その意見が正しい場合だけである。もしもその意見が間違っているならば、そこには何の価値もない。相手の意見を尊重するということは、相手の意見が間違っていてもそれを指摘しない、ということではない。それはむしろ相手を馬鹿にする態度である。相手の意見が間違っているならば、それが間違っていることを指摘しなければならない。それが他者を尊重するということであろう。

もしもある人が誤った考えを信じ、それが誤りであることを誰も教えなかったとしたら、彼はいずれ間違いを犯したり、恥をかいたりするだろう。それを放置する人には、他者への思いやりが欠如していると言わざるをえない。

東氏の態度は不誠実というよりも、卑怯と言うべきだろう。彼は、他者の意見が間違いだと断定することを避けることによって、ひるがえって、自分の意見が間違いだと断定されることをも避けようとしている。つまり彼は、まだ一度も、人と議論を戦わせたことがないのである。自分の意見が正しいか否かということを、人と話し合った経験がない。

だが、それこそが議論である。自分の信念が正しいかどうかを全身全霊を賭けて判断することから、本物の知性が生まれてくる。自分が正しいか間違っているかは問題ではない、と考える者は、決して自分の間違いに気づくことができない。自分が間違っている可能性に気づくことができない。というより、そういう議論を経験したことがない人間は、自分が何を信じているのかを知ることすらできない。

人は必ず何かを信じている。それが正しいかどうかを判断することが理性である。その判断から逃れようとする者は、自分が間違っている可能性を否定するために、他者が間違っている可能性をも否定しようとする。それがリベラリズムの本質である。彼らは自分の無知を守るために、他者にも無知でいることを強いる。

人には自分の好きなものを信じる権利がある、とリベラリストは考える。それはただの無知である。そうではなく、人は、自分が信じている意見が正しいかどうかを知らねばならない。それが理性である。そして、他者と意見を戦わせることで、自分の意見が正しいかどうかを判定しようとすることが、議論である。この観点からいうと、リベラリストが「議論」と呼んでいる行為はただのおしゃべりにすぎない。リベラリズムは無知への信仰であり、動物の宗教である。

ここまでに述べたように、議論が正しい意見を知るための手段なのだとすれば、すでに正しい意見を知っている人には、議論をする必要はないことになる。つまり議論は、無知な人間にこそ必要なものであって、知識を得た人間にとっては不要なものである。

実際には、無知な人間にとっても、議論はとくに必要ではない。なぜなら彼は、すでに知識を得ている人から学ぶことができるからである。したがって、わざわざ人と議論を戦わせる必要はなく、智慧のある人から教えを受ければよいのである。

ここではっきりさせておくが、私はすでに正しい知識を得ている。ゆえに私はあなたに知識を与えるが、私があなたから受け取るものは何もない。私とあなたの関係はつねに非対称である。私は誰とも議論をしない。議論に値する人間がいないからである。

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