西力東漸
満洲の問題はロシアの東進と関わりがある。建国間もないロシアは、ヨーロッパとの貿易のために毛皮を必要としていた。彼らは毛皮を求めて東方開拓を続け、オホーツク海に到達した。そこから南下して満洲に至り、清朝と国境紛争を起こしたが、1689年にネルチンスク条約が結ばれ、両国の国境が画定した。
このときロシアが利用したのは、モンゴルよりも北のシベリアを通るルートであって、ほとんどユーラシア大陸の北限に近い場所である。有史以来このルートを利用した勢力はロシア以外に存在せず、満洲に北から攻め込まれることは、満洲人も予想していなかったに違いない。人類の技術の進歩がこれを可能にしたと思われるが、もしかすると地球気候の変化も関係しているのかもしれない。
そしてこれは、そのころ勃興しつつあったヨーロッパの文明が、その力を極東にまで及ぼし始めたことを意味していた。文化的な後進地域だったヨーロッパは、モンゴル人の世界征服によって東西交流が活発化した際に、世界中の文化に触れる機会を得た。そこから刺激を受けてルネッサンスが始まり、大航海時代を経て力をつけ、逆にアジアを脅かすまでになったのである。
16,7世紀にはまだポルトガルやスペインが主役だったが、19世紀には産業革命を経たイギリスの力が肥大化し、やがてアジア全体を呑み込むほどになってくる。イギリスはその武力と工業力を背景としてインドを植民地化し、その後ナポレオン戦争の混乱に乗じてオランダ植民地を占領、マレー半島とシンガポールを手に入れる。また中国とアヘン戦争を行い香港を割譲させるなど、極東をも自身の勢力圏に取り込もうとしていた。
日本の近代化と阿弥陀仏
そんな中、西洋各国の蒸気船到来に驚いていた日本人は、ようやく太平の眠りから覚まされることとなった。しかし彼らはただ寝ていたわけではなく、長崎を通じて蘭学を吸収し、中国の進んだ文化を学ぶことに努めていた。そのような素地があったからこそ、明治の近代化が急速に成し遂げられたのである。
日本文化の特徴は何かといえば、それは取捨選択であると思う。我々はよいものを選び、悪いものを捨てることができる。たとえばヨーロッパの文化のうち、技術や法制度などの優れた要素を受け入れ、それらを育んだ思想を捨てることができる。毒を食らわば皿までというふうに、舶来の文化をそのまま受け入れることがない。そうではなく、ある文化と、その文化が生じた背景とを区別し、後者を完全に無視してしまうことがある。
しかし、それで構わないのである。ニュートンが熱心なキリスト教徒だったからといって、キリスト教徒でなければ『プリンキピア』が理解できないわけではない。ある知識が発見されるに至った過程と、知識そのものとは区別されねばならない。それが役に立つ知識なら吸収すればよいが、役に立たない部分まで吸収する必要はない。それが日本人の合理性である。
これはこじつけかもしれないが、このような日本人の合理性は、仏教と響き合うところがある。たとえば法然上人に『選択本願念仏集』という書があるが、この選択とはまさに取捨選択を意味する言葉である。
阿弥陀仏がまだ菩薩であったときに、自分が実現する仏国土に必要な要素と不必要な要素とを分別し、よいものを取り、悪いものを捨てるという選択を行ったことを元にしている。これは同時に、念仏という手段を他の手段から区別し選び取ったという意味でもあるが、このように、ものごとを分別し選択するという仏教的な思考が、日本人の合理性を育んだと思われる。注意すべきは、この分別は因果律にもとづいて行われる、ということである。阿弥陀仏の選択は、念仏という手段が、彼が実現すべき仏国土の正しい原因となることを理解した上でのものだった。
これは一種の神話にすぎないが、この神話が意味する因果律の一意性というものを、日本人は正しく理解していた。ニュートンの法則は、ニュートン以外の人間が見つけても正しいものである。したがって、ニュートンがどんな人間であったかということは、彼の発見した法則とは関わりがない。そこには因果関係が存在しないので、切り離して考えてもよい。このようにして日本人は、ある文化と、その文化が生じた背景とを切り離すことができ、それによって無理のない近代化を達成できた。
トルコや中国が直面した近代化の問題は、いかにして西洋の思想・宗教を排除して、その技術のみを我がものとするか、ということであった。彼らはこれに失敗したが、日本人は難なくそれを成し遂げてしまった。その背景にあるのは文化の違いであり、思想の違いである。これは日本文化が仏教によって作られたというだけではなく、もともと日本の風土の中に、インドの思想と響き合うところがあったのだと思う。仏教的な無常と触れ合う前から、日本人は無常を感じていたのだろう。
国際社会と人種差別
そのように、日本は外国からの圧力を感じながら近代化を達成したが、それによって外圧が消滅したわけではなかった。列強の存在は、維新の成立後も日本を圧迫し続けたのである。
最も大きな圧力は、人種差別であった。サンフランシスコにおける日本人排斥法に限らず、日本人が黄色人種であるために、白色人種から差別的待遇を受けることは数限りないものがあった。そこには厳然として差別が存在していたのである。ヨーロッパ人からすれば、アジア人が彼らに支配されるのは当然であり、それを疑うことすら馬鹿馬鹿しいことであった。その差別的待遇を撤廃するために、昔の日本人がどれだけ苦労をしたことか、現代人には分かるまい。その最たるものが満洲事変である。石原莞爾の言によれば、錦州爆撃は国際連盟への爆撃だったという。
国際連盟は世界秩序を維持する組織として発足したが、その秩序とは植民地に立脚したものに他ならなかった。それは連盟の主要国が植民地を経営していたことからも分かるし、その設立が決定されたパリ講和会議において、日本全権が提案した人種差別撤廃案がにべもなく否決されたことからも明らかである。アジア人への差別は国際連盟の前提であった。そのような歪んだ国際秩序に異を唱えたことこそが、満洲事変の歴史的な意義である。
こう言われても、実感が湧かない人もいるかもしれない。だが、ヨーロッパ列強による植民地の獲得が、人種的偏見によって助長されたのは事実である。もしかすると、この問題に深入りするべきではないのかもしれないが、近現代史を語る際に、この話題を避けて通ることはできない。
私はあえてこういう言い方をするが、差別には、不当な差別と妥当な差別がある。妥当な差別とは、文化の程度に基づくものである。文化的に優れた人々が、文化の劣った人々を差別する。これは単なる差別ではなく、文化を持つ者が、持たない者にそれを与えるという義務も含まれている。一方、不当な差別とは、文化に基づかない差別である。ある民族が文化的に優れているにもかかわらず、他の未開の民族と外見的に類似しているからという理由で、低級な文化しか持たないようにみなされることである。
こうした議論はどこかで循環しているような印象がぬぐえないのだが、あえてこのような形で示しておく。なぜなら、これはある意味では正鵠を得ていると言えるからである。思うに、知識の程度によって人間が区別されるのは当然である。賢い人間も愚かな人間もみな平等に評価されるべきだというのは、人間の歴史に対する冒涜であり、学問の価値を不当に貶める間違った考えである。文化には価値があり、知識には価値がある。それを認めるならば、知識の大小によって人を区別するのは自然なことである。
それを差別と言うべきかどうかは分からない。差別という言葉の定義にもよるし、そもそも差別という言葉が何を意味しているのかも明らかではない。しかし一応こういう言い方をしておくし、こうした定義を設けておくことにも意味はあると思う。
すると当時の日本人が感じていたことは、自分たちは差別されるべき理由がないのに差別を受けているという、不正義の感覚であり、同時に、自分たちの同胞である朝鮮人や中国人にも、はやく近代化をして文明人になってほしいという、近隣民族に対する欲求であった。アジア人全体が文明人となれば、欧米人から人種的理由で差別されるいわれもなくなる。そのために、日本人はアジア全体の近代化を目指すようになったのだろう。
だが、そこには落とし穴があった。近代国家が成立するための不可欠の条件は、ナショナリズムである。民族的な団結によって近代化が成し遂げられるが、それは同時に他国への敵意を生じずにはおかない。たとえば朝鮮が近代化するということは、朝鮮人の民族意識が高まることを意味しており、それは結果として、他民族である日本人への敵意を強めてしまう。つまり、アジアを近代化するということは、アジアに反日感情を植え付けることを意味していたのである。
孟子は「仁者敵なし」と言った。徳を施す者は敵を作らず、味方ばかりが増えてゆく、という意味である。しかし近代文明の伝道者は、自分の周りに敵ばかりを増やしてしまう。ゆえに、それは仁ではないし、知恵でもない。ただの無知であろう。我々は近代の先にある、本当の仁を見つけ出さねばならない。
近代の克服
ヨーロッパ諸国の植民地獲得競争が極東に到達したとき、日本はいやおうなく近代化を強いられた。そして自国の権利を守るために、他国との競争に勝ち続けねばならなかった。
日本はまず清国を降し、その後南下するロシアを満洲で迎え撃ち、これを破った。それによってロシアの勢力圏は満洲以北に留まることになり、中国へ手を伸ばすことは難しくなった。これは日本の同盟国イギリスにとっても、満足できる結果だったに違いない。日本人はいつの間にか、ヨーロッパ諸国の演じる陣取りゲームのプレイヤーになっていたのである。
これほど不毛なことはない。そのゲームの果てに何があるのだろうか。各国が勢力を拡大するのは、自分の国を守るためだろう。それならば、はじめから他国を侵略しなければよいだけではないか。お互い自分の分を守って、他人のものに手を出さなければ、何の争いも起きないだろう。いったい彼らは何をしているのか。我々は何をしてきたのか。
我々がすべきことは、この弱肉強食のルールの中で生き残るために、自身が犯した侵略行為を正当化することではなく、ルールそのものを書き換えてしまうことである。我々が克服すべきは偏狭なナショナリズムである。敵と味方を明確に区別し、敵の不利益を望み、味方の利益を求める。その器の小ささが、止むことのない戦乱を作り出していた。
ナショナリズムを克服するということは、民族の垣根を越えて互いに団結し、一つの国家を形づくるということである。その理想は満洲国の中に結実すべきものであった。それは確かに失敗したが、その後の大東亜戦争は、この理想を別の形で追求したものだと言えるだろう。超国家主義はナショナリズムの超克であり、近代の否定に他ならなかった。それは単なる否定ではなく、近代の長所を認めたうえで、その欠点を補うようなものでなければならない。
満洲国は帝国主義的な領土拡大などでは断じてない。それは帝国主義そのものの終焉を意味していたのである。
満洲事変
むろん、これは理念にすぎない。関東軍の将校が満洲事変を起こしたとき、彼らの目の前にあったのは、漢民族に交じって、歓迎されないよそ者として暮らす日本人の姿であった。彼らはロシアから日本を守る盾となったわけだが、日本政府の庇護が届かない異国の地で、報われない生活を続けなければならなかった。
誰が彼らを守ってやれるのだろうか。政府は何もしようとしない。そこは日本国ではないからである。だが彼らは、まさにその日本国のために苦難を耐え忍んでいるのである。最も忠誠心の篤い国民こそが、国家から見捨てられようとしている。この矛盾は、ナショナリズムが抱える矛盾そのものではないか。
では、その地で暮らす漢民族はどのような生活を送っていたのか。彼らは日本人よりも豊かな暮らしをしていたのだろうか。否、何も変わらない。むしろ日本人よりも劣悪な環境で暮らしていたのだろう。いったい何を間違えたのか。日本人も漢民族も、どちらも幸福になる道はないのだろうか。
当然ある。そして、それを実現する力が関東軍にはあった。政府がやらないのであれば、自分たちがやらねばならない。目の前で苦しんでいる人がいて、それを助ける力があるというのに、見て見ぬふりをすることは彼らにはできなかった。
これを軍部の暴走だとして非難する人がいる。現代的な価値観からすれば、たしかにそうだろう。関東軍は、満洲で暮らす日本人に対して何の責任も負っていなかった。だから、彼らがどれだけ苦しんでいても、何もすべきではなかったのである。では、誰が責任を負っていたのか。彼らに対して誰も責任を負っていなかったのだとすれば、彼らは見殺しにされるべきだったというのか。
目の前に困っている人がいても、自分には責任がないから、何もしなくてよい。このような考え方こそ、人間性を破壊するものである。我々はアフリカ人の生命に対して何の責任も負っていない。だから彼らが飢餓で苦しんでいても、何もしなくてよい。
いったい責任という言葉ほど、無責任なものはない。こういうことを言っているから、いつまで経っても戦争も貧困もなくならないのである。困っている人がいたら手を差し伸べねばならない。それが文化であり文明である。それができない人間が野蛮であり、差別に値する存在であろう。
ナショナリズムの起源
満洲国は国際的には承認されなかったが、蒋介石はこれを黙認したようである。これはある意味当然で、奉天軍閥は彼の仇敵だったわけだから、張学良が日本に討たれたからといって、同情してやる義理もなかった。しかしこれこそが彼の欠点であり、つまり蒋にはナショナリズムが欠けていた。同胞が敵国に討たれたならば、それが昔の敵だったとしても、ほくそ笑むのではなく、敵国を憎まなければならない。それができなかったから、彼は共産党に負けたのだろう。共産党はナショナリズムをあおるのが非常にうまかった。
近代とは、ナショナリズムという種によって、各地域が結晶化し、国民国家が誕生する過程である。その種をまいて回ったのが、イギリスやフランスなどのヨーロッパ諸国だった。インドはイギリスの支配下において、ようやく民族的な自覚を持つようになり、国民国家の誕生に向けて進み始めた。中国や日本においても同様に、ヨーロッパとの接触によって、国民国家の成立が促されたのである。
その種はヨーロッパ人が作り出したものではなく、もともと世界各地に存在していたものであろう。そもそもヨーロッパの歴史はアジアが辿った歴史であり、たとえば17世紀の絶対王政は、アジア的な専制君主の真似事だと言える。その後のヨーロッパは産業技術の進歩によってアジアを追い越し、人類の頂点に辿り着いたように見えるが、実のところ民族主義を世界中にまき散らしたにすぎない。
民族意識の高まりは、たとえばモンゴルの歴史に顕著にみられる。チンギス・ハーン以前には、モンゴル人という民族は存在しなかった。彼の出現によって、彼に統一された部族全体が、モンゴル人という自覚を持つようになったのである。そのように民族とは作られるものであり、その作り物によって国家を実現することが、近代化ということである。そうすると、すでにモンゴル人は近代化を成し遂げていたことになり、ヨーロッパ人は彼らの真似をしただけということになる。
だが、ここまで割り切ってしまうのもつまらない。私はつくづく、歴史を語るのには向いていないと思う。歴史は細部が面白いのだが、私は大雑把にしか物事を把握できない。書くよりも読むほうが向いているのだろう。
世界最終戦争
さて、ここで石原莞爾の世界最終戦論について、触れておかねばならないだろう。これは満洲国の建国と切っても切れない関係にある。
彼はまず、日本とアメリカの戦争は不可避であると主張する。これは彼一流の歴史哲学によるものでもあるが、同時に現実的な認識でもあっただろう。西へ向けて膨張を続けるアメリカは、いずれ日本と一戦交えずにはいられない。それが全人類の行く末を決める最終戦争になる、というのが彼の主張であるが、その評価はひとまず措いておこう。
もしもアメリカとの戦争が不可避のものであるならば、それにどうやって勝利するかということを、軍人である彼は考えなければならない。しかし、日本とアメリカの間には巨大な太平洋が横たわっているので、敵を攻略するためには、まずこの障害を越える方法を考える必要がある。
ここで我々は、太平洋の非対称性に注目しなければならない。太平洋は西側に島が多いが、東側には島が少ない。つまり、南シナ海などの日本近海は島が多く、日本がアメリカの進攻を防ごうとするならば、これらの島々全てを守らなければならない。これは守る側に不利な条件である。一方、アメリカ近海には島が少ないので、彼らは海岸線だけ守っていればよい。これは守る側に有利な条件である。
ゆえに、海上戦を戦うならば、日本は不利である。実際、太平洋戦争ではアメリカに押し切られてしまった。したがって、日本がアメリカに勝つためには、空からアメリカを攻撃しなければならない。日本からアメリカまで飛行機を飛ばして、直接攻撃するのである。しかし当時の航空技術では、太平洋を無補給で横断することはできなかった。そのためには数万キロの航続距離が必要だが、当時の戦闘機ではせいぜい数千キロが限界であった。そのため、日本はまず航空技術の開発に注力する必要があった。そして空からアメリカを攻撃できるようになれば、彼らと互角に戦えるだろう。
そのためには重工業の発展が必要であり、当時、世界恐慌のあおりを受けて、各国がブロック経済体制を敷く中で、日本も独自の経済圏を構築する必要があった。そこで満洲地域が重要性を帯びてくる。満洲、日本、さらには中国が連携して、自給自足の経済圏を作り、欧米のブロック経済に対抗する。その中で技術の発展を進め、アメリカとの戦争に備えればよい、ということである。
彼の最終戦構想を空想的と考える者もいるようだが、アメリカとの戦争が不可避であるという予想は、その後の歴史によってすでに証明されている。この点において彼の主張は十分に現実的だったと言えるし、戦争に勝つためのプランまで考えていたのだから、その先見性は評価されるべきだろう。
とくに、日本が欧米のブロック経済にどのように対抗すればよいか、という課題に明確な回答を与えることができたのは、当時においては彼だけだったのではないか。むろん、その方法が適切だったかどうかという点に疑問を呈する人もいるだろうが、満洲事変の背後にどのような思想があり、事情があったのかということは、あらかた説明できたと思う。
世界恐慌によって重大な打撃をこうむった日本社会は、アメリカのような巨大な国内経済を持たなかったので、列強各国が経済を立て直すために自給自足の経済圏を築き、他国との貿易を制限してしまうと、不況から抜け出す道を見出せなくなってしまった。その閉塞状態を打開したのが満洲事変である。満洲というフロンティアが出現することで、日本経済は活気を取り戻すことができた。
日中戦争の原因
だが大局的に見ると、それは問題の解決にはならなかった。日本が独立した経済圏を構築するためには、中国との連携が不可欠だったからである。たしかに蒋介石は満洲国を承認する可能性があったが、大多数の中国人民は日本の行為を侵略とみなしていた。いや、この言い方は正確ではない。大多数の中国人民は日本を非難していると、共産党が主張していたのである。
ここが危険なところで、もちろんナショナリズムを育てるためには、共産党のやり方は正しかったと言えるのだが、中国においては、一度正義が決定されてしまうと、人間はそれに従わざるをえなくなるのである。反日は正義である、と世論が決まってしまうと、反日を唱えることで民衆の支持が集まるようになるし、親日の態度をとると政治家生命が断たれてしまうことになる。それで蒋も最後には反日を掲げざるをえなくなった。
ここにはまた、日本に国を奪われた張学良の恨みも関係している。張は共産党と示し合わせて蒋介石を誘拐し、共産党との統一戦線結成に合意させたのである。世にいう西安事件であるが、これによって日中戦争の勃発は避けられなくなった。
日本は独自のブロック経済を実現するために、中国と協力しようとした。しかし、そもそも中国が無能であれば、彼らと協力することはできないので、中国全土を支配できる統一政府が必要だった。その統一政府と交渉し、自立した経済圏を築けばよかったのである。だがそれは近代国家の成立を意味しており、そのためにはナショナリズムが不可欠である。そしてナショナリズムは排他的なものなので、必然的に統一中国は日本を敵とみなすはずであった。
つまり、日本が中国に突き付けた要求は、矛盾していたのである。日本は親日的な統一中国を実現してほしいと考えていたが、それは近代化の原則に照らして不可能なことであった。そうだとすれば、ブロック経済の実現のために、日本は中国を植民地とするしかなくなってしまう。ここに日中戦争の根本原因がある。我々はただ協力すればよかった。しかし近代化がそれを妨げていた。
大東亜戦争へ
日中戦争の勃発は、ある意味では必然であった。それは近代化の過程で避けられない現象だった。では何が間違っていたのかというと、近代そのものが間違いだったのである。
そうは言っても、ひとたび始まった戦争は、拡大せずにはいられない。参謀本部は盧溝橋で始まった軍事衝突を、はじめは北支だけにとどめるつもりだったが、海軍の強硬姿勢もあって中支に波及することを止められず、なし崩し的に華北から広東までを占領することになってしまった。それとて完全な占領ではなく、日本軍の拠点を少し離れると、ゲリラ部隊が闊歩しているような状態だった。
こうなっては、ブロック経済どころの話ではない。英米系のマスメディアは南京における日本軍の残虐行為を非難し、日中戦争の二年後には、ヨーロッパでヒトラーが火の手を上げた。すでに世界は狂乱状態である。列強の国際協調によって維持されているように見えた世界秩序は、あっという間に崩れ去った。力による均衡は僅かな衝撃で壊れてしまうものである。
また、欧米人による南京虐殺への非難は、人道的な動機からというより、均衡を乱す日本への懲罰という意味が強いだろう。本当は、そのようなもろい秩序しか作れなかった、自分たちの力不足を責めるべきなのだが。
ここまでくると、事態は行き着くところまで行くしかなくなる。アメリカはイギリスと語らって日本への経済封鎖を強め、日本が戦端を開くのを待ち構えていた。ヴェルサイユ体制はすでに過去のものとなり、誰が新しい世界秩序を構築するのか、という点に重心は移りつつあった。
ここで明確な世界像を示すことができたのは、日本だけだったと言える。アメリカやイギリスは旧式の帝国主義的なビジョンしか持っておらず、特別なメッセージを発することはできなかった。日本が示した大東亜共栄圏こそ、新しい世界の姿にふさわしいものである。それは民族の独立と協力を旨とするものであり、戦後の国際連合の理念にそのまま受け継がれていると言ってよい。実際、大東亜戦争の結果として、はじめてアジア諸民族の独立は成し遂げられたのである。
武士道
大東亜戦争は世界の構造を作り替えてしまった。それは欧米諸国によって作られた植民地体制を破壊し、世界に経済的な自由を取り戻した。これほどの大事業がいかにして可能になったのか、そして我々はそれをどう受け継ぐべきなのか、考えてみたい。
日本軍は近代的な軍隊とは異なり、江戸時代の封建的な武士団の性格を残していたと思われる。彼らは愛国的であると同時に、武士道によって己を律することを目標としていた。満洲事変は帝国主義的な侵略戦争というよりも、むしろ義挙として理解されるべきである。誰からも見捨てられた人々を救うために、彼らは武士道的精神によって立ち上がったのである。
大東亜戦争も同様である。あれが帝国主義的な領土獲得戦争だったのであれば、日本は敗北したことになる。だが実際は違う。日本は欧米諸国の圧政に苦しむアジア人を救うために、自ら軍を起こしたのである。なぜならば、彼らも同じように苦しめられていたからである。
日本人は、欧米人によって作られた硬直した社会に不満を抱いていた。彼らは祭りが好きであり、無礼講が好きである。歌垣が好きであり、戦争が好きである。むろん平和も好むが、弱者を見捨てることで成立するような平和ならば、ないほうがましである。不正義の中で生きるよりは、正義のために戦って死んだほうが、気分がよい。
祭りの楽しさは命を捨てる楽しさである。命はときに重荷となるので、これを捨てると楽になる。正義はそのための方便にすぎない。正義のために命を捨てるのではなく、命を捨てるために正義を利用する。それが日本人らしい生き方ではないか。大東亜戦争は、正義のためというよりも、むしろ一種の娯楽と理解したほうが分かりやすいと思われる。これを楽しめない人間には、これを理解することはできないだろう。
なぜナチスだけが非難されるのか
最後にヨーロッパの話をしておこう。第二次大戦中、ナチス・ドイツがユダヤ人を虐殺していたということで、いまだに世界中から非難を集めている。だが、果たしてイギリス人にそれを非難する資格があるのだろうか。彼らの築いた植民地帝国は、人種差別と無関係だったとは言えない。むしろ彼らこそ、世界中に人種差別を広めた張本人ではなかったか。
彼らがナチスを批判するのは、自分たちも同じことをしていたという、後ろめたさゆえであろう。そしてナチスの話題がタブー視されるのは、そこに自分たちの姿を投影してしまうからだと思われる。いずれ自分たちもナチスのように非難されることになるかもしれない、という恐怖が、その話題を口に出すことを憚らせているのである。だが我々は、彼らの臆病風に付き合ってやる必要はない。ヒトラーの功績についても自由に語るべきだろう。
ヨーロッパは人種差別の先進地域である。大航海時代のヨーロッパ人は、アフリカの海岸で黒人を船に乗せて、アメリカの白人入植者に奴隷として売っていた。同じ白人は奴隷にせずに、有色人種だけを奴隷として扱った。
一方、同じころの日本は戦国時代だった。各国は互いに領土を侵略し合い、他国の領民を誘拐し、奴隷として売買していた。日本人は、同じ日本人を奴隷として扱っていたのである。文禄・慶長の役では朝鮮人を拐かすこともあったが、それは国内の戦争の延長として理解でき、とくに人種差別によるものと考える必要はない。
日本人と欧米人と、どちらが野蛮だったかは分からない。だが、人種差別的傾向が強いのはヨーロッパ人の方であろう。またおそらく、人道主義と人種差別は同じものである。人でないものとみなされた相手には、人道主義が適用されないだけで、両者の間には共通した精神があると思う。
参考文献
アジアとヨーロッパの関係史については『宮崎市定全集18 アジア史』が勉強になる。この著者の本はどれも面白いので、いま読み漁っている。
日中戦争の経過を偏見なしに記述した本は少ないが、児島襄『日中戦争』は臨場感があってよい。少し古いが、これで大筋は把握できると思う。また日中戦争よりも前の話になるが、エドガー・スノウ『中国の赤い星』は、中国共産党の長征に従軍した記者によるルポルタージュで、当時の様子が分かって興味深い。
満洲事変については、石原莞爾の評伝を読めばあらすじは分かる。阿部博行『石原莞爾 生涯とその時代』は網羅的な評伝で、読みにくいが参考になる。福田和也『地ひらく』は小説だが、分かりやすく入門にはちょうどよい。石原自身の著作は青空文庫等で気軽に読めるので、挑戦してみるのもよいだろう。
太平洋戦争について統一的に記述した本はまだない。最も優れているのは大岡昇平『レイテ戦記』で、個人的には『平家物語』に匹敵する軍記物の傑作だと思っている。歴史の対象として、あの戦争のストーリーを読みとく作業も必要ではないか。