豚泥棒
以前北関東で、ベトナム人が牧場から豚を盗み、自分たちで解体して食べていた、という事件があった。このニュースを見て、ベトナムは文化が違うな、と思った。
はたして日本に、自分で豚を解体したことのある人がどれだけいるだろうか。豚は日々工場で殺され、加工されてパックに詰められ、スーパーに並べられる。我々は豚が死ぬところを見たことがないし、生きた豚に触れたことすらない。
一方、ベトナム人は豚をよく知っており、自分でさばいて食べていた。そこには文化がある。ひょっとすると、ベトナム人に食べられたほうが、豚も幸せだったのではないか。
日本人と家畜
ときどきネットニュースなどで、日本の畜産業が動物の権利を無視している、という記事を見る。身動きの取れないケージに豚を閉じ込めたり、オスのひよこを殺処分するなど、家畜の飼育状況が残酷すぎる、という話である。どうしてそうなるかというと、畜産の文化がないせいだろう。
日本では江戸時代まで、食用に動物を飼うことは少なかった。日本人のたんぱく源は主に魚と大豆であり、獣は食べても鹿や猪くらいだったろう。そのため、野生の獣と対峙するときの倫理は発達している。猟師の心得のようなもの、山に入るときの礼儀などは、日本中にあると思う。一方で、家畜を食べるときの礼儀は全く発達しなかった。そういう文化がなかったからである。
そこに明治になると無理やり畜産業が接ぎ木され、十分な倫理を持たないままに食肉を続けてきてしまった。欧米では近年になって畜産の状況が見直され、その扱いは改善されつつあるという。だが、そもそも家畜との接し方を知らない日本人にとって、これは難しい課題である。
学校の調理実習で豚や鶏を解体する授業をすれば、日本人にも食肉の文化が芽生えるかもしれない。もしそれができないのであれば、食肉をやめたほうがよいだろう。日本の原風景には豚も牛もいない。魚と大豆の食生活に戻っても、私は困らない。
そもそも、なぜ日本人は獣の肉を食わないのかというと、これがよく分からないらしい。仏教の影響も指摘されているが、一説によると、稲作に関するタブーが原因だという。アジアの一部地域では、稲作を行う期間は獣の肉を食べてはいけない、というタブーが行われており、日本ではそれが通年化したのだという。大陸では普通に肉を食べるし、沖縄でも豚を食べるが、本土では食べない。不思議なことである。
獣を殺せるか
宮沢賢治の「フランドン農学校の豚」は、豚の視点から屠殺の現場を描いた童話である。この作品は、日本における食肉倫理の不可能性を表現している。畜産業は近代化の過程で日本社会に導入された業種であり、産業の機械化と同時に出現したものである。宮沢はそこに一切の倫理が存在しないことを指摘した。日本人にとって、家畜は機械と変わらないのではないか。獣を殺す重みが、本当に分かっているのだろうか。この童話は我々に問いかけてくる。
私自身、魚を三枚におろしたことはあるが、豚の切り分け方は知らない。魚は背中から包丁を入れるが、豚は肋骨があるから腹からさばくのだろう。そして内臓を取り除き、そこからどこをどうやって切ればよいのか、そもそもどういう刃物を使うべきか、全く想像できない。これでよく肉食などしているものだと思う。ロース肉のどちらが上でどちらが下なのか、あれはどこにどうついている肉なのか、何も知らずに食べている。これでいいのだろうか。
魚や鶏は目が動かないので、表情が見えない。だから殺すのにも抵抗がない。だが、牛や豚には顔があり、こちらをじっと見ているのが分かる。それを殺せるだろうか。生まれたときから一緒にいて、その成長を間近で見てきた動物を、殺して食べるとはどういうことか。そこにはどうしても倫理が必要である。
逆に言えば、そういった必要性がなければ倫理は生まれてこないだろう。いまの日本のように、はじめから見えないところで家畜が育てられ、殺されている環境では、食肉の倫理など生まれるはずがない。この意味で、アイヌのイヨマンテは倫理である。自分たちと一緒に育った熊を食べるためには、何らかの言い訳が必要になる。そこには真心があり文化がある。獣に対する思いやりとあきらめがある。それが日本人には欠けている。