論難に答える 第3回

認識論はいったん置いて、中論の話をしたいと思う。

龍樹菩薩が著した『中論』第二章に、「去るものは去らず」という有名な議論がある。様々な先生がすでに解説をされているが、ここでは、アリストテレスの自然学と比較しながらこれを説明してみたい。なお、読者は中論の内容をある程度知っているものとして話を進める。中論の本文と解説については、ページ下部に掲げる参考文献を参照のこと。

アリストテレス

質料・形相

まず、アリストテレスの議論を簡単に紹介する。彼の哲学の特徴は、ものの変化を説明したことにある。あるものが他のものに変化するとき、そこには必ず変化の主体が存在する。

たとえば、無学なソクラテスが教育を受け、教養ある人間になったとしよう。このとき、「教養のない人間」が「教養ある人間」へと変化したわけだが、変化の主体はソクラテスという個人である。ここでソクラテスは、教養があろうがなかろうが、個人としての同一性を保っていると考えられる。

このように、何かが変化するとき、変化しないあるものが存在し、それの上で性質が変化する。ソクラテスという人間が存在するから、彼は教養のない状態からある状態へと変化できたのである。そもそもソクラテスが存在しないのであれば、教養があるともないとも言えないし、それが変化することもない。したがって、変化が生じる前提として、何かあるものの存在が必要であることが分かる。ここで、変化の主体となるものを「質料」と呼び、変化する性質のことを「形相」と呼ぶ。

可能態・現実態

次に、物体の移動について考えてみよう。ある物体がA地点からB地点まで移動したとする。このとき、それがA地点で静止している状態のことを「可能態」と呼ぶ。移動することが可能な状態、という意味である。一方で、A地点からB地点まで移動しつつある状態のことを「現実態」と呼ぶ。現実に移動している状態、という意味である。

ここで、ある物体が可能態から現実態へと変化することで空間的な移動が生じた、と考えることが許されるならば、我々は空間的な移動を状態変化の一種として理解できることになる。現実態とは「現に変化しつつある状態」のことであり、可能態から現実態に移ることで変化が起きる。ソクラテスの例でいえば、まだ教育を受けていないとき、彼は可能態にあり、現に教育を受けつつあるとき、彼は現実態にある。以上の議論で「可能態」と「現実態」が定義されたこととする。

仏教教理を学んだ人間からすれば、アリストテレスの議論には突っ込みどころが満載なことが分かる。

中論第二章

さて、中論に移ろう。以下に中論第二章第十一偈を引用する。

  もし去者に去あらば、すなわち二種の去あらん。
  一にはいわく去者の去、二にはいわく去法の去なり。

ここで「去者」を「可能態」に、「去法」を「現実態」に置き換えてみれば、龍樹の議論がよく分かる。

可能態とは、まだ運動していない状態にある物体のことである。しかしそれは、運動することが可能なものとして、可能的な運動をその中に秘めている。つまり可能態の中には、可能的なものとして運動が存在する。それが「去者」の「去」である。やがて物体が現実態に移ると、運動が始まる。現実態にあるときの運動が「去法」の「去」である。

二つの「去」

アリストテレスの議論では、可能的なものとしての運動(可能態)と、現実のものとしての運動(現実態)の、二種類の運動が存在することになる。一方、龍樹が問題とするのは、可能態と現実態は同時に存在するか否か、である。可能態にあるものが現実態へと変わるとき、1.それは可能態であることをやめて、現実態になるのか。2.それとも可能態のままで、現実態になるのか。

1.であれば、変化の主体が存在しないことになる。変化の過程で変化せず、同一性を保つものがなければ、変化は生じない。しかし、もともと可能態として特徴づけられたものが、可能態という特徴を失ってしまうのであれば、それは同一性を保っているとは言えない。この場合、変化の主体が存在しなくなる。したがって、変化は生じず、運動も生じない。

2.であれば、可能態と現実態が同時に存在することになり、二つの「去」があるという不合理に陥る。

そもそも可能態という概念は、現実態を予想することで成り立っている。現実の運動があるから、運動が可能なものがある。現実の運動がなければ、運動が可能なものもありえない。「去法」を離れて「去者」は成立しない(第十偈)。また、「去者」を離れて「去法」も成立しない(第七偈)。したがって両者ともに不成立であり、「去者」も「去法」も存在しない。言い換えれば、可能態も現実態も存在しない。なぜならば、それらの概念そのものが不合理だからである。

ざっと説明すると以上のようになる。詳しい議論は論文(空の論証)で行っているので、興味のある人は読んでほしい。ダウンロードにpdfファイルを置いてます。

おわりに

龍樹の議論は非常に一般的なものであるため、彼が否定しようとする哲学的立場をあらかじめ仮定しておいたほうが、分かりやすくなる。ここではアリストテレスを例に出したが、上手く応用すれば、どんな哲学にも当てはまる。

アリストテレスが述べたように、哲学とは存在に関する学である。そうである限りにおいて、それは仏教徒によって否定される運命にある。我々はいままでその努力を怠ってきた。私はいまこそ中観をよみがえらせ、あらゆる学説を論破しようと思う。

参考文献

『国訳一切経 中観部一』大東出版社、昭和五年

中村元『龍樹』講談社学術文庫、2002

奥住毅『中論註釈書の研究―チャンドラキールティ『プラサンナパダー』』大蔵出版、1988

東方学院関西地区教室編『チャンドラキールティのディグナーガ認識論批判 : チベット訳『プラサンナパダー』和訳・索引』法蔵館、2001


中論の解説書としては『プラサンナパダー』が最も優れている。奥住氏によって完訳されているが、非常に高価である。図書館で読むことをお勧めする。

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