論難に答える 第4回

哲学と因果律

たとえば、因果律を定義することはできないとか、哲学的にそれを証明することはできない、という話がある。そうだとすれば、哲学には価値がないことになる。なぜならば、現実の出来事には全て原因があるのだから、それを説明することができない学問には何の価値もない。

因果律の議論をする哲学者に対しては、次のように問いかけるべきである。あなたはなぜ因果律の議論ができるのか、と。

彼は過去に因果律という言葉を学び、その説明を聞いたことがある。ゆえに、彼は因果律が何であるかを知っており、いま因果律の議論ができる。因果律について学んだことを原因として、因果律を議論するという結果が生じる。

なぜ彼は、彼が知っていることを知っていて、知らないことを知らないのか。これを因果律によらずに説明することはできない。

たとえば、キリスト教徒が神の知識を持っているのは、聖書を読んだからである。聖書を学ぶことを原因として、神の知識が生じる。もしも因果律がなかったならば、彼は聖書によらずに神の知識を得ることができるだろう。しかし、それは不合理である。ゆえに因果律はある。これが因果律の神学的存在証明である。

分析哲学

なぜ哲学は因果律の説明に失敗するのか。

例として、分析哲学を取り上げよう。これは論理学の一種である。論理学はアリストテレスに由来する学問であるが、彼は理論と実践を分けて考えた。

理論的三段論法は概念の分析に相当し、実践的三段論法は心理学に相当する。分析哲学は前者を発展させたものだが、本来ならば理論に対応すべき実践が欠けている。

理論的三段論法

理論的三段論法は無時間的なものである。次のような推論がある。

 大前提:カラスは黒い。
 小前提:この鳥は黒い。
 結論 :この鳥はカラスである。

この推論は正しくないが、ここで行われていることは概念の分析である。カラスという言葉には黒い鳥という意味が含まれており、それに基づいて、この鳥はカラスだと推論している。このように、論理学には概念の分析という側面があり、それを発展させたものが分析哲学である。

実践的三段論法

一方で、実践的三段論法は時間的なものである。

 大前提:食べ過ぎはよくない。
 小前提:私はもう満腹である。
 結論 :食べるのをやめよう。

実践的論理については、具体的な説明が乏しい。ここでは「節制」の徳を参考にして推論を作ってみた。これは、人が自分の行動をどのように決定しているのか、という人間の心理を説明するための推論である。

アリストテレスは、事実このような推論に基づいて、人間は行動を決定する、と考えた。その上で、実践的推論の大前提となるべき命題を探すために、倫理学の研究を行ったのである。彼にとって、倫理学と論理学は不可分のものであった。

実践的推論が理論的なものと異なる点は、そこに人間の行動が絡んでいることである。理論的推論は概念の分析に還元できるが、実践的推論はもっと具体的な事実に即している。その具体性を切り捨てることで分析哲学は成立する。

行動の原因

実践的三段論法は因果性の説明そのものである。これは、ある人がなぜその行動をしたのかということを、彼の判断に基づいて説明する。彼はこの大前提を信念として持っていたから、このような結論を導き、行動に移した。大前提を原因として、行動が生じたということである。

それはまた、よりよい大前提を見つけ出すことで、よりよい人生を生きることができる、ということを意味する。それが彼を倫理学的探究に導いた。そこでの目的は、善とは何であるかを明らかにし、それに至る手段として徳を分析することにあった。そのような分析によって、善に至るための大前提として中庸を発見したのである。詳しいことは『二コマコス倫理学』で確認してほしい。

だが、そこにはもう一つ課題があった。大前提はそれでよいとして、小前提はどうなのか。問題はむしろ、人はどのようにして小前提を得るのか、ということではないか。ここに認識の問題が現れる。私が理解する限りでは、アリストテレスはこの問題の重要性に気づかなかったようである。

実践的三段論法を正しく行うためには、その大前提の正しさもさることながら、正しい小前提を得ることも重要である。節制の徳を実践するうえで課題となるのは、節制がよいことであるかどうかよりも、むしろ「自分がもう満足している」ことを認識できるかどうかではないか。

この点に、東西の哲学の相違を見出すことができる。たとえば老子は、「足るの足るを知るは、常に足れり」と言った。満足することを知っている者は、常に満足している。一方で、常に不満を持っている人は、自分が満足していることを認識できないのだ、と。実践的三段論法に即して言えば、これは大前提ではなく小前提に注目した議論である。

ときどき、犬がキャンキャン吠えて、おやつをねだってくることがある。ところが、おやつを与えても食べようとしない。なぜかというと、さっき餌を食べたばかりなのである。犬は自分が満足していることに気づかずに、なお餌を求める。このような行動は人間のあいだでもよく見られる。

アブダクション

小前提、つまり具体的な事実に関する認識を、我々はどうやって手に入れるのか。我々はいかにしてものを認識するのか。この問題は言語能力と密接に関わっている。

たとえば、我々が松と杉という言葉を使い分けることができるのは、松と杉が異なる樹木であることを知っているからである。むかしの人は松と杉の見分けがついたから、それぞれの樹木に別の名前を与えた。もしも松と杉の区別がつかなければ、名前を与えることはできなかったはずである。ゆえに、人間の言語機能の前提として、ものを区別する能力があると言える。

これは同時に、小前提を構成する個物の認識を提供するものである。最初に挙げた例で言えば、なぜ彼は「これ」が「鳥」であると分かったのか。「この鳥は黒い」と言うためには、それが鳥であることを知らねばならない。何が彼にそれを教えたのか。

次のような推論がある。

 大前提:火のないところに煙は立たない。
 小前提:あの山に煙がある。
 結論 :あの山には火がある。

これはインド論理学(因明)における代表的な推論である(ギリシャ哲学でいう「ソクラテスは死ぬ」に相当する)。因明ではこれを様々な角度から研究するが、その中に、なぜあの山に煙があると分かるのか、という認識に関する議論も含まれる。インドの論理学は認識論も含んだ包括的な学問であり、その点ではギリシャ哲学よりも進んでいたと言える。

また、プラグマティズムの創始者であるC.S.パースもこの問題に注目した一人である。彼は小前提を得る手段をアブダクションと呼び、その分析を行った。それは本来の意味での認識論と言うべきものである。

政府と分科会

このところずっと同じ話題ばかりなので、いささかうんざりしている。だが、それだけ周知されているものでもあるから、例として政府と分科会の意見の違いについて考えてみたい。

世間ではよくエビデンスが必要だというが、エビデンスは小前提に当たる。このウイルスにはこれこれの性質があるとか、感染予防のためにはこれこれの対策が有効であるとか、そういう知識は小前提を構成するものである。しかし、小前提だけで結論を導くことはできない。結論を引き出すためには大前提が必要となる。ここで政府と医師の意見が分かれる。

医師は人命を救うことしか考えないので、人が病気にならないことが大前提となる。一方、政府は個人の生き死にに関わることはできない。というのも、放っておいても人は死ぬからである。ゆえに政府としては、社会の秩序を維持し、人々の生活を守ることを考えなければならない。それが大前提となる。

このように大前提が異なる場合、小前提が同一であっても、異なる結論が導かれる。正しい推論を行うためには、正しい小前提とともに、正しい大前提を得ることが肝要である。いわゆるエビデンスは小前提を提供するものであるが、大前提が欠けていたならば、そもそも推論は成り立たない。

一般的な傾向として、理系は小前提を明らかにすることに熱心だが、大前提には興味を持たない。一方、文系は大前提に熱心で、小前提には興味がない。どちらも不十分である。人間としての卓越性を十分に発揮するためには、両者を同時に求めなければならない。そのためには、実践的三段論法をよく理解することが必要である。


簡単に結論を述べよう。分析哲学が因果性を説明できない理由は、論理学の一側面である理論的三段論法のみに注目し、もう一つの側面である実践的三段論法を切り捨てたからである。

私はこの欠陥を補うために、意味ニューロン仮説に基づいた記号心理学を提唱している。これは人間の認識能力と言語能力を同時に説明する理論である。詳しくは論文「精神の本質」を読んでほしい。pdfファイルもあります。

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