多様性と調和

今回のオリンピックのテーマは「多様性と調和」だという。性別や人種の多様性を尊重せよ、とのお達しである。

何が言いたいかというと、差別をなくそう、ということだろう。自分と異なる人間を尊重できないから、差別が生まれる。自分と異なる人間を尊重できれば、差別はなくなる。だから尊重せよ、と。それができるなら苦労はないのだが。

日本における差別といえば、外国人実習生の労働問題が取り上げられる。コンビニ等の小売業では、賃金の安い実習生が重宝されている。もともと経営が厳しい中で、安く雇える働き手がいるならば、経営者は採用せざるをえない。しかし、日本語能力が十分でなかったり、生活が苦しくて満足な生活ができていなかったりすると、店側が要求する業務をこなせない場合がある。そうすると、雇用主の日本人と被雇用者の外国人の間で悪感情が生じることもある。

こういった問題は、多様性を尊重したところで解決するものではない。人間の社会には必ずルールがあって、ある土地に住んでいる人は、その土地のルールに従って生活している。そこに、ルールを知らないよそ者が入ってくることは、土地の人間にとっては迷惑でしかない。よそ者がルールに従おうとするならまだいいが、自分のライフスタイルを貫こうとするなら困りものである。どんな場合でも、自分らしい生き方は過剰な要求だと考えるべきである。

移民に対する寛大さでいえば、我々はアメリカを見習うべきだ、と思う人がいるかもしれない。しかし、いまのアメリカ人は迷惑な移民でしかない。というのも、もともと北米大陸に暮らしていたのはインディアンであり、白人は勝手に住み着いただけである。インディアンは白人を歓迎したわけではなく、自分たちの土地から追い出そうとした。アメリカ人はそれを暴力でねじ伏せ、そこに移民に寛大な国家を作った。移民を受け入れることは善であり、それを拒んだインディアンは悪であった。だから成敗したのだ、という理屈である。こんなものを見習う必要はない。

私が言いたいのは、よそ者を排除する行為には一定の合理性があるということである。すでに出来上がった社会に部外者を受け入れるためには、一定の労力が伴う。また、異分子が入ることで社会が不安定化する恐れもある。ゆえに、よそ者を受け入れるよりは、排除したほうが得だ、と言える。

ここが核心である。現代人には善悪の観念がない。倫理がない。現代人が罪を犯さないのは、そうすると警察に捕まって損をするからである。彼らは損得だけで物事を考える。ゆえに、彼らに特定の行為をやめさせるためには、その行為が彼らに損害を与えるものであることを示さねばならない。だが、差別は必ずしも損ではない。したがって、現代人は差別をやめない。

本当の問題は、現代人が倫理を持たないことである。差別をなくすためには倫理を作る必要がある。すべての人間が共有できる普遍的な倫理である。その倫理を共有しているという感覚が、人々に連帯をもたらすだろう。我々は、多様性ではなく共通性を作らねばならない。同じ価値観を共有することによって、この人は自分と同じ世界に住んでいる、という感覚が生まれる。それが差別をなくす。

多様性を強調することは差別を助長することにしかならない。我々に必要なのは同一性であり、連帯である。

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