能力主義と格差社会

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先日の記事で、先進国における経済成長が格差拡大の上に成り立っていることを示した。今回は、そうして作られた格差社会を肯定する原理となる、能力主義について考えてみたい。

能力のある人はそれにふさわしい報酬を得るべきだ、という意見はもっともらしく思える。この人の所得は多いが、この人の所得は少ない、という違いを正当化するために、それは能力に差があるからだ、という説明がなされる。つまり、賃金の低い人は能力が足りないからそうなっているのであり、それは努力を怠ってきたからだ、という論理である。

だがこれは一種のこじつけにすぎず、実際には、所得の差を説明するために、能力という概念が発明されたと考えられる。所得の差は客観的な事実であり、その事実を説明するために、あとから能力という言葉が作られた。もちろん、能力という言葉自体は昔からあるが、所得格差の原因としての能力という概念は、最近になって作られたものだと言える。

というのも、どのような能力によって所得が増えるのか、ということについては何の説明もないからである。これこれの能力があれば所得が増えます、という事実があれば、みなこぞってその能力を磨くだろうし、それで誰もが豊かになれるだろう。実際、この能力があれば金を稼げる、という話はよく聞くが、それが確実な効果を生むとは信じられない。

本当は、所得格差の原因となるような能力など存在しないのだ。にもかかわらず、その存在しないものを仮定することによって、格差そのものが肯定される構造が作られている。これが能力主義の欺瞞である。

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この問題をもう少し掘り下げてみよう。私は、そもそも能力なるものは存在しないと主張する。我々が一般に能力と呼ぶもの、スポーツの能力とか楽器を弾く能力なども含めて、およそ能力と呼ばれるものは現実には存在しない。

たとえば、走り幅跳びで8メートルを飛ぶ能力を持つ陸上選手がいたとしよう。もしも、その人の中に8メートルを飛ぶ能力が存在するのだとすれば、彼はどんなときでも8メートルを飛ぶことができるはずである。だが実際には、7メートルしか飛べないこともあるし、ぎりぎり8メートルに届かないときもある。その場合でも、彼には8メートルを飛ぶ能力があると言えるのだろうか。それとも、あるとき彼は能力を失い、次の日にはそれが復活するのだろうか。

そもそも、能力はどこにあるのか。それは筋肉の中にあるのか。それとも神経の中にあるのか。それとも心の中にあるのか。それはどのように獲得され、どのように失われるのか。能力を獲得した前後で、その人にはどんな変化があったのか。

いや、変化はないのである。8メートルを飛ぶ能力があるということは、その選手がある日8メートルを飛び、次の日も8メートルを飛び、また別の日にも8メートルを飛んだ、という個々の事実の集合にすぎない。それに能力という名前を与えているだけだ。

我々の中に能力という種のようなものがあって、我々が仕事をする際には、その種から力の波動がほとばしり、それによって8メートルを飛んだり、ギターを弾いたりできるようになる。そんなことがあるだろうか。

陸上選手が長い距離を飛べるのは、体の各部の筋肉が収縮・伸展を繰り返すためである。心身の状態によってはいつも通りに飛べないこともあるが、それは彼の生理的・精神的状態によって説明可能であり、能力の存在を仮定する必要はない。能力はどこにも存在しない。

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また、仮に能力の存在を認めたとしても、それによって人間を評価することはできない。

たとえば、入社試験で同じ点数を取った二人の新入社員がいるとしよう。そのうち一方は熱心に働き、他方はサボってばかりいる。彼らは同じ能力を持っていると言えるが、前者は役に立ち、後者は役に立たない。つまり、能力は同一でも、実際の行動によって、人間としての評価は異なったものとなる。

人間を評価する際に重要なのは、彼に何ができるか、ということではなく、彼が実際に何をするか、ということである。言い換えれば、能力よりも人格のほうが大切である。

いまの社会では、人を能力によって評価することが正しいことだと考えられている。ゆえに、人格は評価の対象外とされることが多い。

しかしたとえば、人に親切にしたり、正直であるということは、能力ではなく人格の問題である。そうした資質が無視され、能力だけで人間が評価されるために、いまの日本では道徳的な問題が噴出している。平気で嘘をつく政治家や、いじめを放置する学校など、社会のモラルが失われつつあるのは、能力主義の弊害である。

悪いことをする能力者よりも、善いことをする無能力者の方が優れている。前者よりも後者を評価し優遇する社会に変えなければ、日本に未来はない。

善行は社会に利益をもたらし、悪行は社会に不利益をもたらす。この道理を理解できない者に、政治を語る資格はない。

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では、なぜここまで能力主義がはびこっているのだろうか。これは根の深い問題で、本当の原因を探ろうとすると、ギリシャ哲学までさかのぼる必要がある。

アリストテレスの用語で、可能態と現実態という言葉がある。可能態は仕事をなしうる状態であり、能力のことである。現実態は仕事をしている状態であり、人格のことだと考えてほしい。アリストテレスはこのうち現実態を重視し、可能態の存在には懐疑的であった。一方、アリストテレスの研究を行った中世のスコラ学者たちは、可能態の存在をあっさり認めてしまった。

両者の立場の違いは、第一質料をめぐる議論に如実に現れている。アリストテレスはかなり悩んだ末に、第一質料を否定する意見を述べている。それを仮定すれば議論がしやすくなるが、だが、そうすると現実から乖離した不毛な議論になってしまう、という煩悶を抱えながら、その誘惑にぎりぎりで打ち勝ったのである。しかしスコラ学者は何の抵抗もなくそれを認めてしまった。このときに現実性をめぐる問題は忘却され、可能性だけが独り歩きするようになった。

そして近代ヨーロッパの哲学は、スコラ学の伝統を受け継ぐ形で発展したので、ここでも可能態の存在は自明のものとされた。こうして近代思想は現実態よりも可能態を重視するようになり、それが現代の能力主義に至るのである。

アリストテレスは個人の人格を重視したが、近代哲学はそれを無視した。その近代哲学の末裔が、新自由主義という形をとって日本に侵入し、いまだに猛威を振るっている。我々は新型ウイルスの防疫を行うまえに、新自由主義の防疫に力を入れるべきだったのではないか。

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