日本軍の戦争犯罪について

この問題をどう取り扱うかについて、私なりの考えを示したい。

南京虐殺

日本軍の文書には虐殺の規模や程度について記したものはない。規模が明らかな虐殺の事例は、1万から2万人の捕虜の殺害である。これについては、日本軍は捕虜を逃がすつもりだったが、捕虜たちが騒ぎ出したので処刑した、という説がある。

ただ、軍隊の性質として、仲間の命を守ろうという意識が高いので、おそらくわざと殺したのだと思う。捕虜を逃がすと、そのまま敵となって味方に攻撃を加える可能性があるから、逃がすわけにはいかない。かといって、捕虜を食わせていくだけの余裕も日本軍にはない。したがって、殺すしかないという理屈である。

軍による虐殺がエスカレートしやすいのは、こうした論理のせいである。味方の命を危険にさらすよりは、敵を殺したほうがよい。それは明確な敵だけでなく、敵となる可能性のある分子に対してまで拡大される場合がある。そして、軍はそうした兵士の行動を強く諫めることができない。なぜならば、兵士の命を守ることは軍にとって至上命題であるからだ。兵士が上官に命を預けられるのは、上官が自分たちの命を守ってくれると信じることができるからである。上官はその期待を裏切ることができない。それを裏切ってしまえば、軍が成り立たなくなるからである。

こうして、味方の命を敵よりも優先するというルールが徹底されると、敵となる可能性のある民間人に対する攻撃も正当化されてしまう。これがいわゆる軍紀の乱れである。とくに日中戦争がはじまると次々に師団が増設され、日本陸軍は雪だるま式に膨らんでいったので、そのために軍紀の徹底が難しくなったのかもしれない。現象面から見ると、こうした理解が可能だと思う。

七三一部隊

まず、七三一部隊のしたことは兵器の開発であって、特定の民族集団の絶滅ではない。したがって、彼らの行為をホロコーストと比較することは適切ではない。

たとえば、アメリカ軍が焼夷弾を開発するときに、日本の木造家屋のレプリカを作り、それでテストを行ったという話は有名である。このように、通常の兵器であればテストの際に人間を使う必要はないが、生物兵器の場合は違う。生物兵器をテストするためには、どうしても人体実験を行わざるをえない。それが七三一の仕事だった。

ただ、そうして開発した兵器によって、どれだけの人間が殺害されたかといえば、焼夷弾の場合は数十万人が犠牲となったのに対して、日本軍の細菌兵器の犠牲となったのは、せいぜい数千から数万人である。犠牲者の数だけでいえば、七三一部隊よりも、焼夷弾を開発したチームのほうが罪が重いのではないか。

彼らの特殊なところは、自分たちの兵器によって人が苦しんで死ぬさまを、冷静に観察したという点であろう。アメリカの戦略爆撃団を率いたルメイ少将は、爆撃の被害にあった人々の姿を想像するな、と部下に言い聞かせていた。それを想像すると決心が鈍るからである。そのため、B29の搭乗員は焼夷弾に焼かれた人々の姿を見ることもなかったし、想像することもせずに上空を飛び去っていった。一方で、七三一の隊員は、自分たちの兵器によって人が死ぬところを自分たちの眼で観察したのである。そのどちらが非人道的であったのか。

七三一部隊に見られる非人道性は、戦争そのものが持っている非人道性であり、まったく特殊なものではない。それを特殊なものに見せているのは、日本人独特の死生観であり、死との向き合い方である。これも辻斬りの一種であろうから。

三光作戦

(2022/4/22追記)

華北の日本軍が共産党に対して行った掃討作戦を、中国側では三光作戦と呼称するらしい。当時の日本軍は中国共産党の攻勢に手を焼いていており、その対策として、共産党の支配地域にある村々を焼き払い、彼らの補給源を断とうとした。発想としてはアメリカ軍の戦略爆撃に近いものである。

結局、日本軍のこうした行為は共産党の支持者を増やしてしまい、長期的に見れば逆効果だったようだ。城野宏氏の『山西独立戦記』には、この間の事情が実体験をもって記されている。太平洋戦争終結後も中国に残留し、4年間も戦い続けたという興味深い日本軍部隊の記録である。これによると、日本軍は焼き払った村々から豚や鶏、貯蔵された穀物などを略奪していた。敵の食料を奪うことで味方を潤し、敵を苦しめるという発想は自然なものだったようである。

ただ、日中戦争中に行われた「燼滅作戦」はもっと徹底したものだったという。残念ながら、この著作にはその記述はない。戦犯指定に触れるためであろうか。もう少し調べてみる必要がある。

日本軍の犯罪的な行為だけをとりあげて、これを怪物視することは、何の益もないことである。世の中には、他人や自分の中に悪を見出すことに喜びを感じる人もいて、そういう人々は執拗に過去の悪事を追求する。私はむしろ、悪を憎み、父祖たちが犯した罪を否定しようとする人々のほうに共感するものである。どれだけ悪を追求しても、善は生まれない。善を実現するためには、善を追求する必要がある。

ほかにも色々取り上げるべき話題があるかもしれないが、さしあたって言えることはこれくらいである。

私も勉強中なので、ここで述べたことにも、過去に書いたことの中にも、間違いがあるかもしれない。そうしたものを見つけたら、そういうものだと思ってほしい。

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