日中戦争ノート

『亜米利加物語』では太平洋戦争について書いた。そうすると、次は日中戦争について書かねばならないだろう。いまはまだ書くつもりはないが、日中戦争をどう評価するかということは考えておく必要がある。

東京裁判を信じる人々は、日中戦争は侵略戦争であり、侵略は犯罪である、と主張する。この二つの主張は基本的に異なるものと考えられる。

争点となるのは、日本軍の中国駐留をどう評価するか、ということである。日中戦争の発端となった盧溝橋事件は、日本の支那派遣軍と中国軍との間で生じた武力衝突である。この事件の発端となった銃声については、日中どちらかの工作であるという証拠はないので、どちらにも責任はないと考えるべきだろう。

こうした偶発的な武力衝突は、平時ならば話し合いによって解決可能な問題である。しかしながら、盧溝橋事件は日中の全面戦争へと発展してしまった。その責任はいったい誰にあるのか。

盧溝橋事件への対応を検討すると、日本側は意見が真っ二つに割れていた。これを機に中国全土を武力制圧すべきだという意見と、全面戦争は回避するべきだという意見と、軍内部でも政府内部でも意見の一致は見られなかった。

当時の参謀本部において、支那派遣軍に内地から援軍を送るかどうかで採決をとったとき、票が半々に割れたのは、これを象徴する出来事であった。このとき最後の一票を投じたのが参謀本部作戦課長の石原莞爾であった。彼の派兵賛成によって、日中戦争は始まったのである。

日本軍は戦線を拡大するかどうかという点で、苦渋の決断を強いられていた。というのも、当時の支那派遣軍の戦力は数個大隊程度にすぎず、中国軍が本気で戦いを挑んできたら、一瞬で押しつぶされてしまうのである。

このときに、中国側の責任者が、絶対に戦線を拡大しないという約束をしてくれれば、日本側も派兵を思いとどまることができただろう。しかし、当時の中国世論はすでに抗日一色であり、蔣介石総統も時流に逆らってまで日本と和解することはできなかった。このような反日世論こそが日中戦争を引き起こした最大の原因と言える。

一方、日本側にも意志の不統一があり、それが状況を悪化させていた。参謀本部の責任者である石原莞爾は戦線の不拡大を一貫して主張していたが、部下は彼の意に背いて戦線の拡大を画策していた。上からの命令に反して敵を攻撃したり、参謀本部に嘘の情報を上げることもあった。

石原が増派に賛成したのもこれが原因で、現地軍の将校から、中国軍の主力が支那駐屯軍に向かって進撃しているという誤情報が報告されたのである。それが偽りであることを石原は理解していたが、万一真実であった場合、部下を無駄死にさせることになってしまう。ゆえに、彼は責任者として部下を守る選択をせざるをえなかったのである。

この点で、日本軍には統帥上の問題があったと言わざるをえず、日中戦争の開戦に関して日本側にも一定の責任があると言えるだろう。しかしながら、中国側の責任も決して無いとは言えず、むしろ戦争を避ける努力を怠ったという点で、中国側により多くの責任を認めることもできる。そうだとすれば、日中戦争が侵略戦争だとは言えなくなる。なぜならば、それは中国人が始めた戦争だからである。

日本軍が中国に武力侵攻したことをもって、これを侵略戦争であると断じる向きもあるが、それは正しくない。というのも、日本の支那派遣軍と中国軍の戦力差は歴然としており、中国側が戦争を望むならば、日本側は兵の命を守るために増援を送らざるをえないからである。

問題は、中国側に戦争を避ける意思があったかどうかであるが、これに関しては否定的に答えねばならない。中国人は明らかに日本との戦争を望んでいた。そうした世論を作り出した中国共産党の責任は非常に大きいと言える。

以上の議論に納得できない人は、次のように考えてみるとよい。たとえば、現在の日本国において、自衛隊が在日米軍に発砲して、それが日米の全面戦争に発展したとしよう。はたしてそれは、アメリカによる侵略戦争と言えるだろうか。

アメリカ軍は日米地位協定に基づいて合法的に日本に駐留している。そのアメリカ軍に対して日本人が反感を持ち、武力衝突に発展するようなことがあれば、法的には日本に非があることになるだろう。

しかしながら、もしも、日米地位協定自体を不当で侵略的な条約とみなすならば、自衛隊の行いは正当化されるだろう。アメリカは日本を侵略していたのであり、これは侵略戦争だ、という理屈が成り立つ。

日中戦争のときも、これと同じ問題が生じていた。日本軍は北京議定書に基づいて合法的に中国に駐留していたのであり、その日本軍に対して中国軍が武力行使を行うならば、法的には中国側に非があることになる。

だが、もしも、北京議定書自体が不平等で侵略的な条約であるとするならば、日本軍の中国駐留は侵略行為であることになり、日中戦争も侵略戦争だったことになる。そしてこの場合、日本だけでなく、北京議定書に調印した各国が中国を侵略する罪を犯していたことになる。

ここが最大の焦点となる。はたして、日本だけが中国を侵略したという議論は成り立つのか。

否、そのような議論は成り立たない。日本軍が中国を侵略したとするならば、日本と同様に中国に軍を駐留させていた国々は、等しく中国を侵略していたと考えねばならない。逆に、条約に基づいた軍の駐留を合法と認めるならば、日中戦争に関して日本軍に非はないことになる。

したがって、日本だけが中国を侵略したかのように主張することは許されない。日本軍による中国侵略に言及するときは、必ず日本以外の国による中国侵略についても説明しなければならない。さもなければ、ポリティカル・コレクトネスを損なうことになるだろう。

時系列をさかのぼって考えるならば、日本による中国侵略は日清戦争がきっかけだったと言える。

しかし、下関条約によって日本に割譲された遼東半島に関しては、その後の三国干渉によって清国に返還されているので、このときはまだ中国侵略は始まっていないと考えることもできる。

また、山東半島の威海衛には戦後も日本軍が駐留し続けたが、これは1898年にイギリスに引き継がれ、日本軍と入れ替わりにイギリス軍が駐留をはじめた。

したがって、日本軍の中国駐留が始まるのは1901年の北京議定書からである。これは義和団事件の事後処理を行うために列強各国と清国の間に結ばれた条約であり、各国軍の中国駐留を清国に認めさせるものであった。

日本軍の中国駐留を侵略行為とみなすならば、このときから侵略が始まったと言えるだろう。

こうして見ると、日本による中国侵略がどのように進められたかが分かる。それは主に列強との利害調整によって成り立っていたのである。中国を侵略することを犯罪行為とみなすならば、イギリス、フランス等の列強はみな等しく犯罪に手を染めていた。そして、お互いの犯罪行為を認め合い、相手の利益を尊重することで、国際秩序が成り立っていたのである。

これを発展させたものが国際連盟であるが、それはいわば犯罪者のカルテルのようなものであって、道義的な責任は全くなかった。連盟の目的は国際秩序を維持することであり、それは言い換えれば、カルテル構成員の抜け駆けを防止することであった。

ゆえに、日本軍が満洲事変を起こしたときに、国際連盟はリットン調査団を派遣し、日本を非難する報告書を発表したのである。日本は他のメンバーを出し抜いて、中国を独り占めしようとしたのであるから、これに対してカルテルの制裁が加えられるのは当然であった。

リットン卿を派遣したイギリスは、このときも中国各地に軍を駐留させ、侵略行為を続けていたのである。彼らの日本に対する非難は決して道義的なものでなく、むしろそれとは正反対のものであったことは銘記しておかねばならない。

リットン報告書

なお、リットン報告書には重大な矛盾があるので、それをここで指摘したい。以下の引用は渡部昇一編『全文リットン報告書』を参考にした。同書は「China」を「シナ」と訳している。

リットン報告書は全十章からなっており、第二章は満洲の歴史について述べている。同章には、「シナにおいて国民党支部はつねに地方行政に関与してきたが、満洲においてそれは容認されず」、「内政問題に関していえば、満洲官憲は権力をことごとく保持していた」(第二章第二節)という記述がある。調査団はこの箇所で、満洲の権力が国民政府から独立していたことを認めている。

一方、第三章では、「東三省〔満洲〕はつねにシナや列国がシナの一部と認めてきた地域で、同地方におけるシナ政府の法律上の権限に異議が唱えられたことはない」(第三章第二節)としている。ここで、文中の「シナ政府」を国民政府と解釈するならば、満洲の行政に国民党が関与できなかった、という先の記述と矛盾することになる。ゆえに、この報告書は信用に値しないと言える。

ここで彼らがあえて「国民政府(Kuomintang Government)」という言葉を使わずに、「シナ政府(Chinese Government)」と記述していることに注意する必要がある。彼らはこの曖昧な表現によって、国民政府と満洲政府をひとくくりにし、両者の違いを無視しようとしているのである。

国民党と奉天派の区別を曖昧にしようとする試みは、次の箇所からも読み取れる。「張作霖元帥が何回か宣言した「独立」というのは、彼または満洲の人民がシナとの分離を希望するという意味ではない」、「シナの内乱の多くは、真に強力な政府のもとにシナを統一しようという大計画に直接的・間接的に関わるものであった」、「(張)学良は・・・国民党の統一政策を支援したいと思った」(第二章第二節)。これらの記述は客観的な事実を述べるというより、読者に先入観を植え付けようとするものである。

リットン報告の論理をまとめると、次のようになる。満洲政府と満洲人民は自分たちがシナの一部であることを認めており、また、国民政府がシナを統一すべきであると認めている。したがって、満洲は潜在的に国民政府の領土であるから、武力によって満洲を占領した日本軍の行為は、国民政府の主権を侵害するものであり、侵略である。

満洲事変において問題とされるべきは、まさにこの点、満洲の主権が誰に帰属するのかという点にあるのであって、この点を根拠の薄い推測で解決しようとする彼らの議論は、著しく公平性を欠いたものと言わざるをえない。

もしも満洲の主権が奉天派に帰属するとするならば、彼らは国際的に承認された政府ではない、いち武装勢力にすぎないので、奉天派を排除した日本軍の行為は必ずしも不当なものとは言えない。したがって、日本軍の行為を侵略と断定するためには、満洲の主権者を国際的に承認された国民政府に擬する必要がある。そのために、諸事実に対して恣意的な解釈が行われたのである。

なぜこのようなことが可能だったのかというと、リットン調査団が満洲に来た時点で、すでに奉天派の政府は存在しなかったからである。奉天派政府が存在する間は、満洲の主権者が国民党であるかのように述べることは不可能だった。だが、奉天派政府は既に存在しないから、彼らは好きなことを書くことができた。これがリットン報告書のトリックである。

彼らは中国人のナショナリズムを利用して、日本軍を貶めることに成功した。それが中国人の反日感情に火を点け、日中戦争に発展したことを思えば、日中戦争の原因を作ったのはイギリス人であるといっても、過言ではない。その日中戦争をきっかけとして大東亜戦争が始まり、大英帝国が崩壊する結果となったのだから、イギリス人はまさに墓穴を掘ったわけである。

ここで、我々は「シナ」と「中国」という単語の違いに注意しなければならない。

「支那」という名称は主に戦前の日本人が使用したものであるが、これは「満洲」とは排他的な概念であった。戦前の日本人の認識では、「満洲」と「支那」は別の地域を意味しており、現在我々が「中国」と呼ぶものは「満洲」と「支那」を合わせたものに相当する。「満洲」+「支那」=「中国」であり、「支那」≠「中国」である。

この点に注意しないと、戦前に書かれた文書を正しく読み解くことはできない。渡辺氏の翻訳は当時の認識を忠実に再現したものと言える。

以上をふまえれば、日本語における呼称が「中国」に統一され、「支那」という単語が排除された背景には、政治的な意図があったと推測できる。それは決して差別や偏見の問題ではない。

日中戦争の犠牲者

沖縄戦では、約15万人の沖縄県民が命を落とした。当時の沖縄の人口は約50万であったから、県民の30%が犠牲になったわけである。地上戦の被害の大きさを示す数字である。

また、第二次世界大戦におけるドイツ、ソ連の犠牲者数はそれぞれ総人口の1割にのぼっている。独ソ戦の凄惨さは多くの記録が示すとおりである。

一方で、日中戦争における中国側の犠牲者は軍民合わせて約1500万とされる。当時の中国の総人口が約5億人だったことを考えると、人口の3%が犠牲になったことになる。1500万は非常に大きな犠牲だが、人口比で見ると犠牲者の割合は低い。

たとえば、19世紀中葉に起きた太平天国の乱の前後で、中国の人口は4.4億人から3.6億人に減少している。ここには戦乱の直接の犠牲者だけでなく、農業生産の低下による餓死者なども含まれているが、総人口の約20%が命を落とした計算になる。

太平天国の乱の戦場となったのは主に長江流域であり、局地的な戦争だったと言えるが、それでもこれだけの死者が出たのである。一方、日中戦争ではほぼ中国全土が戦場となった。その規模の大きさから考えると、犠牲者の数は意外なほど少ない。これは、日本軍が住民の被害に配慮しながら戦った結果である。

日中戦争における日本軍の戦い方は、征服戦争というより反乱軍の掃討戦に近い印象を受ける。

日本からすれば、中国国民党は悪性国家たるイギリス、アメリカと手を組む不届き者であり、アジアの平和を乱す危険分子である。この危険分子を取り除くために、その根拠地たる南京や広州を押さえ、国民党を中国から追い出そうとした。それが暴支膺懲である。

中国人からすれば勝手な言い分であるが、日本軍は実際にそのような意図をもって行動した。彼らは大都市とそれらを結ぶ街道を押さえ、それ以外の地域にはほとんど手を出さなかった。暴支膺懲という目的からすれば、面の支配ではなく点の支配で十分だったのであり、この事実によって、日本軍に中国を支配する意図がなかったことが証明される。

戦争の経過から見ても、日中戦争は侵略戦争ではなかったと結論できる。

大東亜戦争末期の1944年、日本軍は中国において大陸打通作戦を決行した。これはシンガポールから北京までを鉄路で結ぼうとする野心的な計画で、その目標は無事達成された。

この作戦の一環として、1944年6月、日本軍は洞庭湖の南にある長沙市を攻撃した。といっても、中国軍の守備隊はすぐに逃げてしまったので、日本軍はやすやすとこれを占領することができた。軍司令部は綱紀粛正のため日本兵の長沙入城を禁止し、全軍城外で野営することになった。したがって、市内には一人の日本兵もいなかったのである。

その日の夜、アメリカ軍の爆撃部隊が長沙市を襲い、市街地を焼き尽くしてしまった。

日本軍の重慶爆撃は世上に有名であるが、実際にはアメリカ軍の爆撃のほうがより多くの中国人を殺傷している。同盟国の民間人を無差別に攻撃するアメリカ軍の行為は、容易に見過ごせるものではない。我々はここに日中戦争の本質を観察しなければならない。

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