施しの経済学(グレーバー読解②)

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前回の記事を書いたあとで、グレーバーの議論は正しくはどうあるべきだったのか、を考えた。

はじめに確認するのは、仕事と報酬は別のものであるということだ。仕事に対して報酬が与えられるべきだという考えは等価交換に基づくものであって、これは社会的な合意にすぎない。ゆえに現代社会のルールを超えて、我々の社会がどうあるべきかを考えるのであれば、仕事と報酬を結びつける必要はない。

仕事とは人の役に立つことであり、人からお金をもらうことではない。したがって、ただお金を貰っているだけの人は仕事をしていないのと同じである。グレーバーが金融業をブルシットと呼ぶのは、このような理由からであろう。人の役に立たずにお金をもらうことは、ほんとうの意味での仕事ではない。お金に見あうだけの働きをしろ、というわけである。

だが、別の見方もできる。お金を持っている人は、そのお金で人のためになることをできるはずである。そうしないことを責める、という倫理観もあるだろう。私はこちらの方が好ましいと思う。

なぜかというと、グレーバーはあまり気にしていないのだが、気候変動の問題がある。地球資源をどうやって適切に扱えばいいかということを考えたとき、所有権が問題になるのだ。所有権は資源の占有を正当化することにほかならないが、これを認めてしまうと、限りある資源を一人の人間が独占し、ほかの人々を苦しめる結果になる。ある土地を線で囲って、ここからここまでは私のものだと宣言するのが所有であり、それを法的に正当化するのが所有権である。このように土地や資源の私的な所有を認め、それを自由に扱うことを認めてしまえば、資源の浪費が正当化され、必要な人に資源が行き渡らない状況が生まれる。

グレーバーはものの私的な所有を認めたうえで、それを適切に分配する方法としてベーシックインカムを提案するが、この方法では資源の浪費を抑制することはできない。つまり、ベーシックインカムには持続可能性が欠けているのである。

何が問題かというと、仕事には報酬が与えられるべきだ、という信念である。仕事にはそれ自体として価値があるのだから、仕事のみで成り立つ社会を考えなければならない。人のためになることをすることが仕事だとするならば、仕事をしている人に施しをするのもひとつの仕事である。資源をより多く持っている人がより少なく持っている人に分け与えるならば、彼は人のためになることをしているのであり、仕事をしているといえる。ここに等価交換の観念は必要ない。仕事は等価交換を超越したものであり、それは現実の行いである。等価交換は人間の頭の中にしか存在しないが、施しや仕事は現実に存在するものである。

私は仕事を罰ではなく施しとして定義する。仕事とは布施である。それは人の役に立つものやサービスを作り出すことであり、また、それらのものを人に与えることである。等価交換がなくとも、施しだけで十分に社会は回るのである。

グレーバーは指摘していないが、仕事と所有には深い関係がある。というのもジョン・ロックは、労働によって所有が正当化されると論じているからである。ロックもやはり労働を神との関係で認識しており、それは神の恵みを引き出すための手段だとされている。労働という手続きを経ることで、所有は正当化される。これをブルシット・ジョブと組み合わせると、無意味な苦行に耐えた結果として金銭の所有が正当化されることになる。

なるほど、ロックによる所有権の議論が意味を持つのは、労働の結果としてより多くの富がもたらされるからである。ゆえに、富をもたらさない労働の結果に対しては、所有権を主張することはできないことになる。つまり、ブルシット・ジョブの報酬に対して所有権は発生しない。少なくとも、ロックの議論に従えばそういうことになる。

こんなことを言っても、誰かがまた別の所有権の定義を提案するだけかもしれない。だが、所有と交換と資本主義は密接に関係している。我々はこのすべてを同時に崩さなければならない。

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鍵となるのは価値という概念である。ロックにおいて、これは自然の恵みという言葉で表される。労働によってより多くの自然の恵みを引き出すことで、それに対する所有権が発生する。労働によって自然から価値を引き出し、その価値を所有する。こうした考えが労働価値説につながってゆくのである。

だが、ブルシット・ジョブの存在は労働価値説を否定する。なぜならグレーバーによれば、それは価値を生まない労働であるから。ロックにおける価値の概念は比較的明瞭である。それは生活の役に立つもの、という程度の意味である。一方で、グレーバーにおける価値の概念は複雑である。彼は小説や絵画のような個人の創作物にも価値があることを認める。これにより彼の議論は説得力を失う。というのも、何に価値があるかを恣意的に決めてよいのならば、ブルシット・ジョブにも価値があると主張することができるからである。

たとえば、有力者が報酬を支払って取り巻きを雇うことは、その有力者にとって価値のあることだといえる。雇用者以外にとってはまったく価値のない仕事でも、雇用者にとって価値があるのならば、無意味とはいえない。これはたとえばSF小説が、SFマニアにとってだけ価値があり、それ以外の人にとって価値がないのと同様である。誰かに精神的満足を与えることに価値があるとするならば、少なくともいくつかのブルシット・ジョブはブルシットではないことになる。

ここで重要なのは、次のように問うことである。価値とは何か。そして、これに答えられる人はいないのである。なぜならば、価値はどこにも存在しないから。

面白い小説を読んだとき、我々は面白いと感じる。このとき我々は面白さを経験するのであって、価値を経験するわけではない。なぜなら、その経験を抽象化したものが価値だからである。単純に小説を楽しむだけならば、価値という概念は必要ない。価値という概念が必要になるのは、それを何か別のものと比較するときである。すなわち、価値という概念は等価交換を前提にしている。

私は、ステーキと白米を同時に食べたい。ステーキだけでも嫌だし、白米だけでも嫌だ。一緒でなければ意味がない。ゆえに、ステーキと白米は交換不可能である。市場経済において、一定量の白米と一定量のステーキは交換可能だとみなされるが、私にとってそれは交換可能ではない。価値うんぬん以前に、白米とステーキは別のものだからである。それが交換可能だというのは、端的に嘘である。

価値という概念が意味をもつのは、それが交換可能な場合である。グレーバーがブルシット・ジョブに価値はないと言うとき、彼は、そこには報酬に見合うだけの価値がないと言っているのだ。だがこの場合、その価値をどうやって計るのかという定量的な問題がもちあがってくる。価値という概念自体が量的な関係を定義するためのものであるから、彼はこの問いに答えねばならない。そしておそらく彼は、ブルシット・ジョブにも価値があることを認めさせられてしまうだろう。なぜならば、価値をどう計るかということに関して広範な同意は存在しないからである。グレーバーが何をブルシットと定義するかは、グレーバー個人の趣味であるといってもいい。

したがって、労働の価値を否定するためには、あらゆる価値を否定しなければならない。そしてそれは、理にかなったことなのである。

そもそも、価値はどこに存在するのかと問うてみればよい。ステーキの価値がステーキのなかにあるとするならば、それは誰にとっても同一の価値となるだろう。ステーキの質量が誰にとっても同じ値となるように、ステーキ自身に固有の価値がそなわっているならば、計る人によってそれが異なることはありえない。だが、ステーキが好きな人と嫌いな人とでは、ステーキに与える価値は異なるはずである。したがって、ステーキの価値はステーキのなかにはない、ということになる。

では、ステーキの価値はそれを利用する人のなかにあるのかというと、それも違う。ステーキの価値がステーキのなかではなく利用する人のなかにあるとすれば、一定量の白米と交換可能なのはステーキではなくあなたのほうだということになってしまう。したがって、ステーキの価値はそれを利用する人のなかにあるわけでもない。

ステーキの価値はステーキのなかにも、それを利用する人のなかにも存在しない。ゆえに、それはどこにも存在しないことになる。つまり、ものに価値があるという考え自体が間違いなのである。いかなるものにも価値は存在しない。これが経済学の基本原理である。

ちなみに、ここで示した議論は龍樹の『中論』を参考にしたもので、空の証明の一つの形式である。

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さて、商品に価値が存在しないということは、等価交換が成立しないので、すべての商取引は布施の一形態だということになる。布施とは人に何かを与えること、人のためになることをすることであるから、人のためにならない商取引は正しい取引ではないということになる。これは、労働力という商品に対価を支払う場合も同様である。それが適正であるかどうかではなく、相手のため、そして社会のためになるかどうかが問われる。それを単純な数量的関係で示すことはできない。

より多く持つ者はより多く施すべきであるし、より少なく持つ者はより少なく施すべきである。これは財についても才能についても同じである。それぞれが自分の持つものを最大限に施すならば、社会全体として調和がとれる。

この世に資本主義ほど貧乏くさいものはない。資本主義者は自分の持っているものをけっして人に渡そうとせず、そうするときは必ず見返りを求める。これは貧乏人の発想である。自分の持っているものを気前よく人に与える者こそほんとうの富者である。富める者が施しを実践するならば、貧しい者もそれに従うだろう。

私は、自分の知識や才能が人よりも優れていることを知っている。だからこうしてものを書き、知識を広めるよう努めている。ほんとうはすべてを無償で行いたい。自分の仕事に見返りを求めることは、私にとって苦痛である。

4

資本主義には、それを規制するための法が必要である。民主的な手続きによって足かせをはめることで、資本の暴走を抑えることができる。労働者の権利を守る法や、市場の独占を禁止する法など、人々を搾取しようとする資本の動きを制限する法があって、資本主義ははじめて人間社会と調和することができる。

この仕組みは性悪説によって成り立っている。民主主義者は、人間は悪人でなければならないと主張する。法の強制力がないところでは、経済人は何をするかわからない。だから、彼らを規制する法律が必要になる。したがって、人間は善人であると仮定すれば、法律は必要ないことになる。

そもそも民主主義が必要であるのは、人間の本性が悪だからだ。すべての人間は自分の利益しか考えていないので、公共の利益にかなう法を作るためには、国民全員を主権者としなければならない。そうすれば、国民は自分の不利益となる法を作ろうとしないはずなので、結果として悪を罰する法が実現される。労働者も国民であるから、自らの利益となる法を作る動機があり、彼らがそのために行動した結果、労働者の権利を守る法が作られたのである。労働者の欲と資本家の欲が衝突すれば必ず公正な法が実現されるはずだ、という想定が民主主義の根拠となっている。

だが、そんな危ない橋を渡る必要はない。そもそも、すべての人間が悪人だという証拠はない。その主張は明らかにキリスト教の神学に基づくものだが、それが信用に値しないものであることは前回で述べた。

我々はさしあたって、すべての人間が悪人であるわけではないし、善人であるわけでもない、と考えればよい。というのも、すべての人間は悪人であるとか、あるいは善人であるとか、そのように考えねばならない理由がないからである。生まれたばかりの赤ん坊はまだ善も悪も行っていないので、善人でも悪人でもない。彼が善人になるか悪人になるかは、彼の行いによって決まるのである。

つまり、人は悪人にもなりうるし、善人にもなりうる。であれば、人が善人になるような仕組みを用意することが、政治理念として適切であるということになる。より多くの人が善を行うようになれば、社会全体の福祉は増進する。それは悪人同士の拮抗によって善を生みだそうとする試みよりも、はるかに信用に値するものである。ゆえに、我々の社会には善人を作り出す仕組みが必要である、ということになる。

そして、その仕組みは法律ではない。なぜなら法律は、人間のなかに悪を見出すことを我々に要求するからである。必要なのは人間のなかに善を見出し、それを成長させることである。すべての人間が生まれつき貪欲なわけではないし、自分の利益しか考えていないわけではない。そのような人間は、そうなるように教育されたのである。自由主義的な教育が利己的な人間を作り出し、民主主義がその悪を罰する。これはどう見てもマッチポンプである。

我々の教育は欲望を肯定するのではなく、善行を肯定するようなものでなければならない。教育が人を作る。ゆえに、法律よりも教育が重要である。

同時に我々は、善を尊ぶような文化を必要とする。否定的な形では、これは恥として表象される。恥は道徳的な非難に対応する感情である。自分が何か間違ったことをしたと感じたとき、我々は恥の感覚に襲われる。それが我々の行動を導くのである。道徳にもとる行いをしたときに恥ずかしいと感じるように、人は訓練されねばならない。

日本人が恥という感情を失ってすでに久しい。それは日本社会に壊滅的な打撃を与えた。我々の身体を焼き焦がすような、あの恥という強烈な感覚があったからこそ、人間は正気を保っていられたのである。その感覚を失ったとき、社会の堕落はとどまるところを知らなくなった。まさに底が抜けたのである。人々はそれを進歩だという。ほんとうの資本主義、ほんとうの自由主義がはじまったのだという。そうではないことを我々は知っている。我々は地獄の釜のふたを開けてしまったのだ。

我々はいま自由主義の勝利を目の当たりにしている。彼らは欲望に忠実な人間を作り出し、法令によってそれを罰し、監視できることを喜んでいる。我々の生活のすべての側面において、欲望は肯定され、同時に否定される。そのダブルバインドがSNSにおける誹謗中傷や私的制裁を生み出しているのだ。グレーバーはブルシット・ジョブのSM(サド・マゾ)的な側面を強調したが、それは民主主義そのものの性質なのである。

なぜこんな醜悪な世の中になってしまったのだろうか。なぜ我々はこうなることを許してしまったのか。こう考えるとき、我々は歴史の歩みを振り返らずにはいられない。我々がいつ道を踏み間違えたのか、日本人がいつ針路を誤ったのか、私はよく知っている。それはあの戦争の結果である。いや、もっと遡るべきかもしれない。その話の一部は『亜米利加物語』に書いたが、残りの部分はいつ公開できるかわからない。

5

日本社会は沈没している。それは経済成長が止まってしまったというだけではない。子供が生まれなくなったというだけではない。もっと根本的なところでこの社会は蝕まれているのだ。

それは道徳の喪失、善悪の喪失の結果である。それは日本社会の自由化にともなって生じた。それは明治維新からはじまり、太平洋戦争を経て、戦後の社会においていっそう強化された。

我々はこれからどこを目指せばよいのだろうか。どうすれば道徳を回復することができるのか。どうすれば日本を再生させることができるのか。

いや、日本を再生するだけでは十分ではない。日本を生き返らせるためには、世界を生き返らせねばならない。

この世界は、自由主義がもたらした悪徳によってすでに息がつまるほどの閉塞感に覆われている。気候変動にも資本の暴走にも格差の拡大にも紛争の頻発にも、人類社会はなんら有効な対策を打てていない。自由主義者は過去の社会と比べて現代社会がいかによくなったかを語り、我々が何もしなくても未来はバラ色だと寝言を抜かしている。そんなわけがなかろう。問題は、過去と比べて現代がいかによくなったかではない。どうすれば今よりもよい社会を作れるかである。

グレーバーは、人間の労働は機械によって代替可能だと述べる。人類社会の生産性は産業の機械化によって大幅に向上しているので、一週間の労働時間は十五時間程度に減らしても問題ないという。だが人類はそうすることを避け、無意味で無価値な仕事を量産して自らを苦しめ続けている。これが意味することは、我々の社会が不適切な仕方で運営されているということである。我々の社会を導く理念に問題があるのだ。ゆえに我々は、社会の正しい設計を考えねばならない。

機械化といえば、最近はAIの進歩が目覚ましく、ブルーカラーだけでなくホワイトカラーの仕事まで奪おうとしている。これは、AIがブルシットジョブを代替することを意味している。そうなれば人類はさらに輪をかけてブルシットな仕事を作り出し、際限のない苦行を自身に課すようになるだろう。

そもそも、人間が生存するために必要な物質的条件は限られている。我々は一日に一キロのお米を食べれば十分であり、それ以上食べることはできない。ふだん着る服も一週間分あれば十分だろう。それ以上のものは必要なく、無駄なものだといえる。

いったいAIが我々にもたらす豊かさとは何か。それは無駄なものを作り出す豊かさにほかならない。AIがやっていることは結局人間のまねごとにすぎず、人間以上の働きはできないのである。

たとえば自動車に搭載されたAIは、なぜ歩行者を見分けられるのか。それは人間が、それは歩行者だと教えてやったからである。猫を見分けるAIは、猫のタグをつけられた写真と猫以外のタグをつけられた写真を見比べて、猫の何たるかを学ぶ。ここで重要なのは、AIにこれは猫だと教えるのは人間であって、AIが自分で猫を発見するわけではないということである。彼らは人間からものの名前を教わり、人間がつけた区別を真似する。だからAIが我々に教えてくれることも、どこかのウェブサイトや書籍から拾ってきた知識にすぎず、そこに本物の手触りはない。AIによって代替されるような仕事は、ほんとうは不要な仕事なのだといっても過言ではない。

また、AIが画像や動画を生成するといっても、それが我々の生活の役に立つわけではない。我々は日々米を食べ、肉を食べて生活している。このような、我々の生活に必要なものを生産する以外の仕事は、本来は不要なものである。もちろん私も、そうした仕事の価値を全面的に否定するわけではない。だが、それがブルシット・ジョブを生み出していることも事実なのだ。

現代の産業はほんとうにいびつな構造をしている。時価総額世界一位のアップル社が販売するiPhoneは、ただのおもちゃである。それが高度な機能を有し、使い方によっては我々の役に立つことに疑いはない。しかし、もしもiPhoneがなかったら、我々の社会はどうなるのだろうか。iPhoneがない世界と、iPhoneがある世界とで、どれだけの差があるのだろうか。たとえばもしもトラックがなかったら、もしも自動車がなかったら、日本国民の半分は飢えて死ぬだろう。だがiPhoneがなくなったとして、いったい誰が困るのか。

じつのところ、我々がiPhoneを買うのはみんなが持っているからにすぎない。みんながiPhoneを持っているのに自分だけ持っていないのは恥ずかしいし、それに、社会全体がiPhoneを前提に動くようになると、それを持っていないと不便を感じるようになる。つまり、我々がiPhoneを買うのは消極的な理由からであって、積極的にそれを必要としているわけではない。

このような人類にとって本来的に不要な製品を製造するために人的・物的資源が無駄遣いされ、そのために我々の社会は行き詰まっているのである。ほんとうに有益な仕事から生み出される富が、不要な仕事によって吸収され、富の分布に偏りが生じているのだ。

6

iPhoneは一台十万円以上もする。その理由は、iPhoneを製造するために高度な技術が用いられ、高い付加価値が与えられているからである。一方で、お米を作る仕事の付加価値は低い。そもそも消費されるお米の量に限りがあるからである。

ここで、付加価値とは何かということを考えてみよう。産業革命が起きるまえ、人類は手織りで布を織っていたが、自動織機の発明によって生産性は大いに向上した。たとえば、手織りであれば一日で一枚織れる布が、自動織機を使えば一日で十枚織れるとしよう。この場合、単位時間あたりに生産される商品の量は十倍になったので、生産性は十倍になったといえる。そしてこれは、付加価値が十倍になったことを意味するのである。

付加価値が増加するのは主に、これまで以上に多くの商品を製造できるようになった場合と、これまで以上に質のいい商品を製造できるようになった場合である。iPhoneに搭載されている半導体やマイクロデバイスは、高度な技術によって作られた非常に質のいい製品なので、多くの付加価値がそこに詰め込まれているといえる。だからiPhoneの値段は高いのである。そしてそれは、ただのおもちゃなのだ。生活の役に立たない、ゴミのような付加価値が詰め込まれた商品を高値で売りさばくことによって、アップル社はぼろ儲けしている。これが現代社会の構造であり、これこそが問題なのだ。

お米や洋服など、人間にとって必要な商品の需要は限られている。一方で、不必要な商品の需要には際限がない。だから産業技術が発達するにつれて、不必要な商品の生産が必要な商品の生産を圧倒するようになった。それが新しい仕事を生み出し、人々の労働時間が吸収されていくのだ。

資本の運動には際限がない。すべての資本はより多くの利益を生みだす投資先に流れてゆく。需要に上限がある産業よりも、無限の需要が見込まれる産業に資本は流れ、より高い付加価値を生み出すよう経営者に要求する。それが人類社会を豊かにするのだろうか。いや、貧しくしているのだ。その結果、人々は必要もない仕事に追われ、役に立たない付加価値を生産し続けている。

ほんとうはそんなに働く必要はないのだが、資本家はそれを許さない。労働者が働けば働くほど、彼らの取り分は多くなるからだ。なぜ資本家がそれほど多くの富を求めるのかというと、彼らの間にも競争があるからである。よりよい投資先を見つけた資本家は順調に資産を増やし、国家や大衆から遠く離れて特権的な暮らしを享受できる。一方で、それほどうまくやれなかった投資家は没落し、ほかの資本に飲み込まれてしまうだろう。

すべての人間は悪人である。だから、自分の身は自分で守らなければならない。資本家の命を守ってくれるのはより大きな資本だけなので、自分の鎧をさらに分厚いものにするために、彼らはリターンの大きい投資先をつねに探し求めているのである。

何が人間をここまで駆り立てるのか。それは悪人への恐怖である。そして、それを作り出しているものこそ民主主義なのである。民主主義はすべての人間が悪人であることを要求する。そうでなければ民主主義は成立しえないからだ。その悪への傾向が資本の暴走を生み出し、格差を拡大させ、不要な労働を作り出し、地球環境を悪化させている。民主主義こそが諸悪の根源である。それは悪を肯定する思想であり、道徳の破壊者である。

本当の悪はあなたの外ではなく、あなたの中にあるのだ。イエスは言った、この中で罪を犯したことのない者だけが石を投げろと。それは他人の罪を許す言葉であると同時に、自分の罪を許す言葉でもある。仏陀は言った、他人のしたことしなかったことを見るな、自分のしたことしなかったことを見よと。それは自分の悪を許すなということである。仏陀はあなたを救うためにいるのではなく、あなたを滅ぼすためにいる。あなたの悪を滅ぼすために。

7

では、我々が目指すべき場所はどこか。

それは必要なもので満足する世界である。すでに述べた通り、人間が生きてゆくために必要なものはそれほど多くない。豊かに生きるために必要なものも、そんなに多くないはずだ。我々はそれを生み出す力をすでに持っている。だから、経済成長はもう必要ない。ほんとうに必要なのは労働を減らすことだ。我々は経済ではなく、政治を成長させなければならない。

本質的に重要なことは教育である。自由主義的な教育をやめ、道徳を尊ぶ教育を行わなければならない。孟子や孔子など、朱子学にもとづいた教育が理想だと思う。日本だけでなく、欧米でもそうした教育を行わねばならない。これに関して我々は、中国人と手を携えることができるかもしれない。

自由主義やキリスト教にもとづいた教育は撲滅しなければならない。それは悪を増長させるからである。

そのあとで我々は、需要ではなく必要に応じた経済を構築する。人が何を求めるかではなく、何を必要とするかを供給の基準とする。これは資本主義でもなく、共産主義でもない。基準となるのは穀物である。すべての人間に穀物を行きわたらせることがこのシステムの課題である。

この穀物を基準とした経済が具体的にどのようなものなのか、私にもわからない。それはたぶん封建制のようなものだと思う。各国に王がいて、彼がその国の穀物生産の半分を徴収し、半分を農民の手元に残す。王は家臣たちに穀物を分配し、家臣たちはさらにその配下に穀物を分配する。こうして国民の半分は政府の機構に組み込まれることになる。

この仕組みの優れた点は、人口の制御ができることである。王は穀物生産を完全に掌握しているので、その国の人口に見合った量の穀物を生産させることができる。日本の減反政策と同じである。むかしは農業の生産性が低かったので、できるかぎり多くの穀物を生産しなければ、人口を維持することはできなかった。だがいまは逆に、農業の生産性が高くなりすぎて、米が余っているのである。

これはよいことである。というのも、我々はすでに全人類を優に養っていけるだけの農業生産力を確保できているのだから。問題は逆に、人口が増えすぎてしまうことにある。世界の人口をこれ以上増やさないためには、農業生産を一定量以下に抑える必要がある。人口増加はあらゆる社会問題の原因となるので、これからは人口を減らしたり、規模を抑える工夫が必要になる。とくに環境破壊は人間の生活が原因で起きているから、これを解決するためには人口を減らすことが望ましい。世界人口がいまの半分に減れば、二酸化炭素の排出量も半分に減るはずだ。

新しい封建制は人々の労働時間を減らし、さらに人口そのものを減らす。これで環境負荷は軽減されるだろう。

だが、この社会でお金はどのように動くのだろうか。人々はやはりいろいろな仕事に従事し、商品を生産する。農業も穀物だけではなく野菜や果物など、色々な産物がある。コンピューターも作られるし車も作られる。それらは以前と同じように流通し、消費者によって購入されるだろう。

問題は、そこに税金をかける必要があるかどうかだ。いったいこの場合、政府とは何であるのか。この封建制においては、諸王を束ねる王として世界政府の首領が存在する。世界政府は国家間の争いを調停し、戦争を禁止する。彼はほかに、何をすればいいのだろうか。

ちょっと行政の勉強をしなければいけないようだ。

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