社会貢献合戦

私の経験上、お金持ちの人ほど税金に文句を言いたがる。勤め人は給料の低さに文句を言うが、経営者は税金の高さに不満を漏らす。そのくせ、俺はこれだけ社会に貢献しているのだから、お前ら感謝しろよ、と変な優越感を持っている。

そんなに不満があるなら、いっそ税金をやめてしまえばいいのだ。そもそも税金とは何かというと、富の再分配という役割がある。お金持ちからはたくさん税金をとって、貧しい人からは少ししかとらない、あるいは給付を行うという形で、富の格差を是正する効果があるといわれている。だから、お金持ちほど税金に不満があるのだ。

では、税金を廃止したらどうなるだろうか。あなたが稼いだお金はすべてあなたのもので、税金は取りません。それをどう使おうとあなたの自由です、ということにする。

そうすると当然、社会保障はなくなるので、高齢者や子供、病人などの経済的弱者は見捨てられることになる。あなたは、これらの困っている人々を助けるためにお金を使うこともできるし、私利私欲のために使うこともできる。どうするかは完全にあなたの自由だ。そうなったときに、人はどういう行動をとるだろうか。

税金とは何かというと、これは社会貢献の基準なのである。これだけお金を払っていれば、あなたは社会貢献をしたことになりますよ、という免罪符である。

その基準がなくなると、社会貢献合戦がはじまる。これだけ払えば十分という基準がないのだから、より多く出したほうが偉い、ということになり、俺はこれだけ社会貢献をしたのだ、というマウントの取り合いになる。お金を出さない人は、ケチや守銭奴とさげすまれるようになり、みんな無理をしてでも社会のためにお金を使うようになる。おそらく、税金があるときよりも、ないときのほうが、富の再分配は完全なものになるだろう。どれだけ私財をなげうっても、十分ということはないのだから。

しかし、税金をとらないとすると、どうやって政府を運営すればいいのか、という問題が生じる。お金を使わずに人を動かす方法があるだろうか。

ここで必要なことは、世界政府を前提として考えることである。世界全体をひとつの政府が統治する。その状況下では、お金によらない政治が可能だ。それはすなわち、米である。米に限らず、世界中の穀物を世界政府が独占する。そして、メシが食いたければ俺たちに従え、といえばいいのである。

人間は食事をせずには生きていけないので、食料さえ握ってしまえば、人を従わせることができる。それが、お金によらない政府のしくみである。

この方法の利点は、資源の浪費を防ぐことができる点にある。お金に依存した政府は、より多くの税収を求めて、経済の成長を図ろうとする。経済界はその要求に応え、絶えず新しい産業を生み出す努力をする。その結果、必要以上に商品が製造され、資源の浪費が加速する。

iPhoneにしろAIにしろ、そんなものがなくても社会を回すことはできる。実際には、これらの産業がもたらす利益よりも、資源の浪費や環境破壊による不利益のほうが大きいのである。そのように本来不要なものであっても、より付加価値の高い製品を作り出すことで、GDPを膨らませることができる。それは政府の税収を増やすことを意味するので、資源の浪費は無視されてしまう。

一方で、穀物を基調とする政府は、より多くの生産量を求める必要がない。なぜなら、その権力は穀物の有限性によって成り立つからである。人間が一日に食べるご飯の量は決まっているので、富の総量は不変である。したがって、成長を前提としない、定常的な社会を実現することができる。

では、その具体的なしくみはどのようなものか。

税金の第一の役割は、政府職員を養うことである。政府の業務を行うためには公務員を雇う必要があり、その給与を税金によってまかなわなければならない。第二に、物資の調達である。政府の庁舎や備品類、その他業務を行うために必要なものを税金によって調達する。

一方で、世界政府が保有する財は穀物である。この政府は職員の給料を穀物によって支払い、商人への決済を穀物で行う。ゆえに、穀物を貨幣として流通させる工夫が必要になる。たんに穀物を換金し、その金銭によって支払いを行うのであれば、政府の予算は、日本だけでみると5兆円程度にしかならない。これはコメの市場規模の概算だが、かりに五公五民で半分を徴収して、半分を農家に残すとすれば、国家予算はだいたい2.5兆円になる。昨年の自衛隊の予算が約9兆円だというから、これではぜんぜん足りない。社会保障をぜんぶカットしても、政府機能を維持することは難しいだろう。

考えうる手段としては、穀物に何らかの強制力を付与し、社会に流通させればいい。つまり、コメの値段の公定である。問題は、その値段をどうやって決めるかということである。

かりに、成人男性が一日活動するのに必要な熱量を2000kcalとして、これを白米に換算すると約600gとなる。したがって、白米600g=成人男性一日分の労働、という等式が成り立つ。

労働価値説の立場に立つと、商品の価値はそれを製造するのに必要な労働力に等しい。これは、労働の結果を価値として表現する考え方である。それならば、労働力を発揮するのに必要なエネルギーを労働の価値として表現することができるのではないか。すなわち、労働の原因を価値として表現するのである。

現在のGDPを労働者の数で割れば、一人当たりのGDPが計算できる。これを年平均の労働日で割った数を白米600gに等しいとおき、これを白米の公定価格とする。

だが、これだとコメの価値が高くなりすぎて、農家の立場が強くなってしまう。こういう変な操作はしないほうがいいかもしれない。

こんなことを考える必要はないのだろうか。経済的な問題よりももっと大事なことがあるような気もする。税制よりも法律面の制度を先に考えるべきか。

タイトルとURLをコピーしました