所有権の不可能性
たとえば、ある人物「A」が時計「甲」を所有しているとしよう。この状況を、Aには甲の所有権がある、と表現する。
ここで、所有権はどちらに属するのだろうか。甲の所有権は甲の側にあるのだろうか、それともAの側にあるのだろうか。かりに、Aのなかに甲の所有権があるのだとすると、それはどのような仕方で甲と関係しているのだろうか。
Aのなかには甲の所有権が存在しているが、それだけでは何の意味もない。Aが甲の所有権を持っているという事態が表面化するのは、たとえば、AがBに対して甲を売却するときである。AとBが売買契約を結び、その契約の履行として、BはAに代金を支払い、AはBに甲を引き渡す。このときに、甲の所有権はAからBに移動する。
ここから、所有権は移動しうるものであることがわかる。それは何らかの契機によって、具体的には契約という行為によって、AのなかからBのなかへ移動するのである。かりに、所有権がAのなかではなく、甲のなかに存在するのだとすれば、甲のなかにある所有権の性質がAからBに変わった、ということになる。
もう一つの場面を考えよう。別の人物Cが、Aの自宅から甲を盗み出し、自分のものにしてしまう。このとき所有権がAからCに移動するかというと、そうはならない。所有権は依然としてAのもとにあり、Aは裁判を通して、Cのもとから甲を奪い返すことができる。これが所有権のもつ力である。
すなわち所有権とは、それによって公権力を動かし、所有者の手にその物を留めておくように強制する力である。したがって、公権力が存在しなければ、所有権という概念は意味をなさない。では、所有権は公権力の中に存在するのかというと、そうではない。なぜならば、公権力が甲を所有しているわけではないからである。では、それは甲の中に存在するのかというと、それもちがう。なぜならば、甲を所有する者はAであり、Aが所有権を行使するからである。ゆえに、所有権はAのなかにあるといえる。
しかしそれは、つねに表に出ているわけではなく、特定の状況で表面化するにすぎない。それは契約の場面や、裁判において主張されるものであるが、主張されない間にも、たしかに存在すると考えられているものである。
したがって、所有権には二つの形態があることになる。所有権が発現していない状態、すなわち潜在的な状態と、発現した状態、すなわち顕在化した状態である。潜在的な所有権はつねにAのなかに存在しているが、それが顕在化するのは特定の状況においてだけである。
では、潜在的な所有権はどのように存在しているのだろうか。それは意識状態であるかというと、そうではない。Aが甲を意識していないときも、所有権は存在するからである。ではそれは、肉体的な状態であるかというと、それもちがう。我々の肉体のなかに所有権が刻まれているわけではないからである。ゆえに、精神的な状態である、と考えたくなるが、それが意識状態と関係していないことから考えて、精神的な状態であるともいえない。
ある人は、これを法律的な状態だというが、この言葉が意味することは明確ではない。いったい法律的な状態とは、何のどのような状態なのだろうか。法律的な状態は、我々人間のなかに存在するのだろうか。それは、我々が法律を意識するときの精神状態であろうか。しかし、所有権は意識とは無関係に存在するものであるから、それはありえない。それとも、それは物のなかに存在するのか。だが、時計のなかに法律が存在するとは考えられない。Aのなかにも甲のなかにも存在しないのだとすると、法律的な状態は、裁判官のなかに存在するのだろうか。しかし、甲の所有者ではない裁判官のなかに、甲の所有権が存在するとは考えられない。したがって、法律的な状態なるものは、Aのなかにも、甲のなかにも、それ以外のいかなるもののなかにも存在することはない。
ある人はいう、法律的な状態とは、人と人との関係である。AがBと契約を結んだときに、そこに法律的な状態が発生するのである、と。ではそれは、Aのなかにあるのか、それともBのなかにあるのか。AとBの間にあるということは、空気のなかに存在するという意味か。そのどちらでもないことは明らかである。ではそれは、AとBとの関係を観念する、あなたの頭のなかに存在するのだろうか。しかし再三述べている通り、あなたは甲の所有者ではないから、あなたのなかに甲の所有権があるとはいえない。甲の所有権を有しているのは、AとBのどちらかであるから、それを表す法律状態が両者と無関係に存在するはずはないのである。同様に、AとBとの間に紛争が生じた際に、それを裁く裁判官のなかに法律状態がある、ということもできない。
では、法律状態は観念的な存在なのかというと、それもちがう。なぜならば、誰かがAと甲の関係を観念していないときにも、Aのなかには所有権が存在しているからである。観念とは無関係に存在するのだから、観念的な存在ともいえない。
どういうことかというと、所有権という言葉は、現実に存在するいかなるものとも関係していない、無意味な言葉だということである。それは法律とも関係していないし、わたしともあなたとも関係していない。存在しない、ということすらないようなものである。所有権以外の財産権についても、同様のことがいえる。
新しい法体系
権利に基づいた法体系は、この意味で、まったく空虚なものである。それは原始的な感情を無思慮に形式化したものにすぎない。これはおれのものだから、おれが自由にしていいはずだ、盗まれたら取り戻していいはずだ、という、動物的な本能の正当化以上のものではなく、理性的なものとはいえない。
ゆえに我々は、権利という概念を用いずに、法律を作らなければならない。
たとえば、
人のものを盗んではならない。これに違反した者は〇〇年以下の拘禁刑に処す。
これは刑法である。刑法の規定は、権利という概念を用いなくとも表現することができる。ここに問題はない。
では、民法の規定はどうか。売買や賃貸借などの、民間の取引を規律する法律はどうなるだろうか。
というか、そもそも、民法は必要だろうか。
もしも、民法が国民の権利を守るために存在するのだとすれば、権利を否定する我々の法体系に民法は必要ない。
では、いったいどうやって、不当な行為から国民を守ればよいのか。
不法行為
たとえば、高利貸しというものがある。金銭消費貸借の利息金を不当に高く設定する貸金業者である。これに対しては、年利何パーセント以上の利息は無効とする、と定めればよい。
では、不法行為の場合はどうか。これは刑法とも重なる領域だが、たとえば、交通事故で死亡した被害者の遺族が、加害者に賠償金を求める。民法ではこれを不法行為といい、被害者側に不法行為に基づく損害賠償債権が発生すると定める。被害者は適法に債権を取得したとみなされるので、これを行使して、加害者から賠償金を受け取ることができる。これは被害者保護に資する素晴らしい仕組みだ、と人はいう。
だが、ほんとうにそうだろうか。お金はたしかに必要なものだが、人を殺した罪がお金で許されるという点に、居心地の悪さを感じる。不法行為に対する損害賠償という局面には、最も悪い意味で等価交換の思想が現れている。それは、人の命を金銭と同視する思想である。これはよくない。
かりに、不法行為債権の成立を認めないとすれば、不法行為の被害者をどうやって救済すればよいのか。
もしかすると、救済する必要はないのかもしれない。不法行為の被害者と加害者の間に、新たに関係を作り出す必要はない。加害者は罪を償いたいかもしれないが、償わなくてもよい。罪を償うことで許しを期待するのは傲慢である。
被害者は、損害賠償を受け取らなくとも、家族や親族、同郷の者などから支援を受けて、生活を続けることができるはずだ。逆にいえば、そうした他者からの支援を切り捨てるために、損害賠償が必要なのである。個人主義の思想を徹底させるために、個人を周囲の社会から孤立させるために、人と人とのつながりを断ち切るために、損害賠償が必要とされる。
人はひとりで生きてゆかねばならず、助け合いは幻想である。ゆえに、他人から損害を被った場合は、その相手方に代償を請求しなければならない。これは最小の人間関係で問題を処理しようとする思想である。孤立した個人が、偶然に左右されずに生きていくためには、国家による権利の保障が必要である。したがって、人と人との助け合いが自然に行われる社会では、権利思想は必要ない。
これは思想的な問題である。個人主義を是とする者は、権利思想を肯定するだろう。それは等価交換の思想を肯定することに等しい。ここでは、そうではない社会も可能なのだということを指摘しておきたい。
債務不履行
次に、債務の不履行を考察しよう。
たとえば、AがBに甲を売却する契約を結んだとする。BはAに代金を支払ったが、AはBに甲を引き渡そうとしない。これが債務の不履行である。売買契約によってAとBの双方に債務が生じるが、一方がその履行を拒んだ場合、他方当事者には、それによって被った損害の分だけ、相手側に損害賠償を請求する権利が生じる。
ここで問題とされるのは、個人の利益ではなく、契約そのものである。契約には当事者を拘束する力があり、これを破った者には罰が与えられねばならない。誰が罰を与えるのかというと、国家である。
かりに、約束を守るのも破るのも自由だということにすると、取引の安全性が損なわれる。ショートケーキを作るためにイチゴを注文したのに、取引先が他の商店にイチゴを売ってしまったせいで、イチゴを手に入れることができなくなった。そこで、代わりのイチゴを手に入れるために余計な出費をすることになった場合、その出費が損害となる。民法によれば、この場合、契約を破った相手方に損害賠償を請求することができる。賠償金を払うのが嫌なら、最初から約束を守ればよかったのだ。
我々の民法は、国民に約束を守るように促す。それは、約束を破った者に罰を与えるという仕方で行われる。これは復讐である。期待を裏切った相手を許さないという感情が、権利思想の起源である。この思想が商取引を安定させ、経済の発展に役立っていることは疑いない。
だが、わたしが約束を守るかどうかは、わたしが決めることである。罰を受けるのが怖いから約束を守ったというのでは、本当の意味で約束を守ったことにはならない。信用を裏切った相手方を罰したいと思うのは自然な感情だが、そこに国家が介入するべきかどうかは、考え方によるだろう。権利思想の背後にあるのは人間不信である。人間は約束を守らないに決まっているから、約束を守らせるために罰を与えなければならない。そうしないと、人を信用することができないのだ。政治家は悪いことをするに決まっている、という根拠のない偏見が民主主義の起源であるのと同じく、権利思想もやはり人間不信に端を発している。
たしかに、取引相手が勝手に約束を破ったら困るし、そこから生じた紛争を裁くのは国家の仕事である。したがって、何らかの規律をもうけることは必要なのだが、それは、権利という概念を用いなければできないことではない。賠償金がなくても人が約束を守るようになれば、無駄がなくなって効率的である。
言葉に関する罪
さきほど刑法の話をしたが、いまの刑法に足りない要素があるのを思い出した。それは虚言罪である。我々の刑法には、嘘をつくことを禁止する条文がない。これは問題である。虚言罪を作れば、それがある程度、民法の代わりとなるだろう。
ひとつ、嘘をついてはならない。
ひとつ、人の悪口を言ってはならない。
ひとつ、人に取り入るために、媚びへつらいの言葉をつかってはならない。
ひとつ、人を仲たがいさせる言葉をつかってはならない。
約束を破ってはならない、という決まりも、こうした言葉に関する罪の一種として規定すればよい。罰則を設けることもできるが、言葉に関する罪を単体で問うよりも、ほかの罪状に加重する形で使うことが多くなるだろう。
そもそも、ある人が契約不履行で他人に損害を与えた場合に、そこに国家が介入する必要はない。このとき、約束を守らなかった罪によって相手方を罰することはできるが、損害賠償の支払いを国家が命じることはない。もちろん、これは政策的な問題であり、経済の発展のために商取引の安全を確保しようとするならば、契約違反による損害の填補を相手方に強制するような立法が適当である。だが、それは切り捨ててもよい。経済成長を不要と考えるならば、個人の利益をそこまで手厚く保護する必要はない。契約不履行によって生じた損害は、本人がもともと負うべきリスクだったと考えられる。
三権分立
しかし、このように保障の範囲を狭めることは、資力の少ない者を苦しめることになるのではないか。契約不履行の責任を問われないとすると、不義をしたもの勝ちになりはしないか。
そう考えると、ある程度の保障は必要かもしれないが、そこは裁判官の裁量に任せてもいい。民法を廃止するということは、司法と行政が一体化することを意味する。いまのやり方だと、国会の政策によって法律が作られ、その法律に基づいて裁判所が判断をするが、新しいやり方では、司法権力が政策的な判断をする。したがって、紛争の相手方にどれだけの賠償を命じるかということも、政策判断の一部として決定されることになる。これだと司法権力にかかる負担が大きくなるが、こういうやり方も不可能ではないだろう。もちろん、損害賠償を命じなくてもいいし、それが基本である。
司法、立法、行政は一体化するべきである。我々は、法治主義を採用しない。三権分立を採用しない。政治は信義に基づいて行われるべきであり、法律に基づくべきではない。
三権分立はフィクションである。現実に存在するのは行政という一本の大木であり、司法と立法はその小さな枝にすぎない。両者はもともと独立して存在するものではなく、行政のひとつの機能と考えたほうが自然である。これに三権という名前を与え、無理やり対等な関係に押し上げようとしても、実質が伴わない。過去の判例を見ればわかるように、最高裁判所の判決はつねに時の政権に寄り添っており、その違憲審査機能は形式的なものにすぎない。また、国会で審議される法律は、そのほとんどが内閣によって立案されたものである。司法と立法の独立は見せかけにすぎず、実際の権力は行政組織によって担われている。これが現実である。
行政のほかに権力はない。それが、新しい法体系の予想する政治体制である。
相続
民法を廃止するならば、相続法はどうなるかというと、なくてもいいだろう。そうすると大小無数の争いが発生する可能性があるが、基本的には、国家が関与すべき問題ではない。長子相続でも、平等相続でもよく、一律に決める必要はない。ただ、平等相続の場合、土地の権利関係が複雑になり、所有者不明の土地が発生しやすくなるので、個人的には、長子相続のほうが好ましいと思う。
そもそも、国家が国民の財産を管理しようとするのは、税金をとるためである。しかし我々の国家は、基本的に税金をとらない。だから、国民の財産を事細かに把握して、そこから税を徴収する努力はしなくていい。代わりに、食糧を管理する必要がある。これがどういうシステムになるかは、まだはっきりしていないが、この国家の燃料は米になるはずである。
その場合、お金よりも土地のほうが重要度が高い。食糧を生産するためには土地が必要だからである。税も土地に対して賦課することになるだろう。だからといって、個人を土地に縛りつける必要はなく、土地の売買は自由でよい。しかし、税を納めるためには土地を所有しなければならないので、土地を持っているということが一種のステータスになるだろう。
民主主義の先にあるもの
我々の政府は、国民の財産を管理せず、そこから奪うこともしないので、資金不足が問題となる。三権分立をやめた場合、権力の濫用が起きるのではないか、と心配する人がいるかもしれないが、その心配はない。なぜならば、濫用できるほどの権力がないからである。
現代日本において、国の力は絶対である。巨大な空港を作ることも、ダムを作ることも、日本中に鉄道網や道路網を張り巡らせることもできる。新型コロナ禍において、日本国民全員に無償でワクチン接種を行わせたことは記憶に新しい。日本国内であれば、国にできないことはない。
そこまで強大な権力がなぜ可能なのかというと、民主主義のおかげである。民主国家は、国民が自己の権利全てを国家に移譲することによって成立する。そのため、国家には国民を完全に服従させる権力が備わり、その権力を適切にコントロールするために、国民の政治参加が必要とされる。これはマッチポンプである。そもそも民主主義がなければ、これほど強大な権力が存在するはずはなく、したがって国民の政治参加も必要ないのである。
民主国家の絶対的な権力は、国民を極限まで無責任にしてしまう。自分ひとりが何をしようと社会を変えることはできない、と諦め、何か問題が起きると国の責任だと決めつけて、自分で解決しようとしなくなる。むかしは東京大学の卒業生にとって、国家公務員になるのがエリートコースの定番だったが、いまは、優秀な学生ほど外資系の企業に就職したがるという。国家公務員は激務のわりに給料はほどほどで、外資系のほうが高収入をねらえるからだ。これは、自分さえよければそれでいいという、自由主義教育の賜物である。
若者たちにとっては、いまの社会システムが絶対であり、その中でどう立ち回るか、ということばかり考えている。そこからは、新しい社会を作ろうとする熱意は微塵も感じられない。それがなければ、国家は衰退していくだけだ。民主主義の強すぎる力が、この国から未来を奪っている。
一方で、我々が想定する国家は慢性的に資金難であり、権力の濫用よりも、いかに権力を強くするかが課題となる。もしかすると、こんな国家に魅力を感じる人はいないかもしれない。だが、それでいい。国の力よりも民の力が重要だからだ。
この国家の財政がどうなるかはよくわからないが、賄賂には注意しなければならない。国家権力が小さくなると、公務員の給料も少なくなるので、自分の食い扶持を自分で見つけなければならなくなる。そこで、賄賂がはびこる可能性がある。それは、ある程度は仕方ないことであり、各自の倫理に任せるのがいいだろう。
