原子論批判

量子力学の歴史的・形而上学的研究

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序論

たとえば、月面上で一つの He 原子を観測し、同時に地球上で一つの He 原子を観測したとする。事前に時計を同期させておくことで、このような実験は可能である。その後一秒以内に、地球上で一つの He 原子を再び観測する。このとき、一秒前に月面上にあった He 原子が、地球上まで移動した可能性を、我々は排除できない。計測の間隔を十分に短くとれば、He 原子は光速以上の速度で移動したことになる。

ここであなたは、地球上の He 原子が二度観測されたのだ、と言うかもしれない。しかしそのような考えは、同種の原子を区別できない、という原理を正しく理解しているとは言えない。地球上の He 原子が二度観測された、という主張は意味をなさない。なぜならその主張は、同一の原子が二度観測された、ということを意味しているからである。では、同一の原子という言葉が意味するものは何か。

同一の原子、という概念は不合理である。なぜならば、同種の原子は区別できないので、原子の同一性について議論すること自体が無意味だからである。ゆえに、地球上の He 原子が二度観測された、という主張は成立しない。我々は、月面上の He 原子が光速度以上で移動した可能性を無視することはできない。ゆえに、原子の存在は相対性理論に反すると言える。

我々は、相対性理論の正しさを認める。また、量子力学の正しさを認める。しかし原子論が正しいかどうかは、明らかではない。我々は、原子の存在そのものを疑ってみなければならない。

第一部 電子

1 電子の大きさ

1.1

もしも、電子が磁性の原因であり、それ自体が磁気モーメントを持っているとするならば、電子は大きさを持たねばならない。というのも、磁気モーメントは方向を持つが、点は方向を持たないから。ゆえに、電子は少なくとも二点を含むものでなければならない。

また、物質の磁化が実在するものであるならば、その原因である電子の磁気モーメントも実在すると言わねばならない。

したがって、電子は実在し、それは大きさを持つはずである。

1.2

では、電子の大きさとは、何を意味するのだろうか。

原理的には、物体の大きさは接触によって定義される。というのも、物体の境界とは他の物体との接触面であるから。そして、そのような境界面こそが、物体の大きさを決める。しかし一方で我々は、物体の接触作用が静電気力に由来することを認めている。

そこで、もしも物体の大きさが、接触作用を通して、静電気力によって定義されるのだとすれば、静電気力の源である電子の大きさを、どのように定義すればよいのだろうか。

1.3

接触した物体間に働く力学的な力の源は、何であると考えればよいだろうか。

例えば、物体の形が変わらない程の弱い力で、二つのイオン結晶体を接触させることを考えよう。その接触面においては、van der Waalls 力が働いているだろう。その力が静電気力に由来するならば、物体の大きさを決めるのは、やはり静電気力だと言えるだろう。

一方で、表面のイオンはその位置を変えないのだから、表面にかかる力と同じ大きさの抗力を、物体の内側から受けているはずである。この抗力を作り出しているのは、結晶の結合力であろう。結晶を構成するイオン間には静電気力が働き、結晶構造を保とうとする力が働いている。ゆえに、物体の形を保つ力は静電力であると言える。

1.4

二つの He 原子を接近させたときに、何が起きるだろうか。

ある距離まで近付いたところで、最外殻電子間に交換斥力が生じ、それ以上近付けなくなるだろう。それは原理的には、パウリの排他律によって働く力であると考えられる。ゆえに、物体が有限の大きさをもち、どんな物体も原子一個分のサイズに縮んでしまわない理由は、パウリの排他律にあると言える。

1.5

例えば、マグネシウムの原子核は、12 個の陽子と同数の中性子から成る、ボーズ粒子である。また、マグネシウムは 12 個の電子を持ち、原子全体としてはボース粒子であると考えられる。したがって、マグネシウムには、パウリの排他律は働かないはずである。それが固体として一定の大きさを保っているのはなぜか。

結局それは、一つのマグネシウム原子の持つ電子が、他のマグネシウム原子の持つ電子と反発しあうからであろう。この場合は、物体に大きさを与えているのは、静電力といってよいであろうか。それとも、二つのマグネシウム原子間に働く交換斥力によるというべきだろうか。

Mg 原子自体は中性であるから、二つの Mg 原子を近付けたとしても、静電力は働かない。しかし、ある程度まで近づけると、二つの原子は分極し、双極子モーメントにより引力が働くだろう。さらに近付けると、Mg 原子の最も外側に広がる電子同士が接触することになる。それは、どのような作用を生むだろうか。

二つの原子が Mg ではなく、C であれば、二つの電子軌道が融合し、共有結合が生まれるだろう。しかし Mg では、軌道が融合してもエネルギーは安定とならないため、結合は作られない。その代わりに、二つの電子軌道が交差することにより、交換斥力が働くと考えられる。

1.6

交換斥力とは何か。

それは、二つのフェルミ粒子は同一の状態をとることができない、というパウリの排他律に基づいて、二つのフェルミ粒子間に働く力である。電子はフェルミ粒子であるから、この斥力が働くことになる。斥力に逆らって電子同士を近付けた場合でも、二つの電子が同じ状態を占有する、つまり、二つの電子が重なることは、排他律により禁じられることになる。

しかし、次のことにも注意しなければならない。もしも、あるフェルミ粒子が電荷を持たないならば、事実上、交換斥力は働かないということである。なぜなら、交換斥力が働くためには、粒子は離散的なエネルギー準位を持っていなければならない。しかし、離散的な準位が形成されるためには、その粒子は電磁的なポテンシャルに束縛される必要があり、それは結局、粒子の電荷が原因となっているわけである。つまり、交換力は電子が電荷を持っていることで生じるが、排他律は電気的性質によらずに成立している、ということである。

また、厳密に言えば、ボース粒子に対しても、それが複数のフェルミ粒子から構成されているならば、パウリの排他律が働くはずである。

さて、以上のことから、物質の大きさを維持している力が、排他律とクーロン力であることは明らかであり、究極的には排他律のはたらきによって、物体の大きさは保たれていると言えるだろう。また、物体の大きさを定義するための接触も、この二つの原理によって成立していると言える。そして、この二つの原理は、主に電子に対して働いているのである。

では、電子の大きさとは何だろうか。物体の接触が電子によってもたらされるのであれば、電子は何と接触するのか。結局、電子の大きさを定義することはできないのではないだろうか。

1.7

そもそも、電子とは何だろうか。

それは電場の源であり、同時に、電場の作用を受ける物質である。

例えば、負に帯電した剛体球を考えよう。球が電場の中にあるとき、電場の強さに応じて力を受けるだろう。その力はどこに働いているだろうか。それは、剛体球の中にある電子に対して働いているのである。球と電子は固く結びつけられているので、電子に働く力は、球全体に作用することができる。

一方で、電子に働く電場をある程度以上に大きくすると、電子は球の束縛を離れて、外に飛び出してしまう。それは電場の流れに沿って、他の物体にぶつかるまで運動し続けるだろう。つまり、陰極線である。そのとき、電子はどのように運動するだろうか。電子の運動は、どう記述されるだろうか。

我々は、電子の運動が記述されえないことを知っている。電子がどのように運動するか、ということを説明することはできない。我々は、電子が初めにどこにいて、最後にどこに到達したかを知ることができる。しかし、電子がどこを通ったのか、ということを知ることはできない。

では、なぜ、それが運動する、と言えるのだろうか。それは本当に運動しているのだろうか。そもそも、電子の大きさを定義できていないのに、その運動について、どのように考えればよいのだろうか。

2 古典論における電子

2.1

ここで、古典的な電磁気学・力学における電子の問題を振り返ってみよう [1]。

電子の大きさに関しては、大雑把に言って二つの説がある。一つ目は、電子は大きさを持たず、点であるという説。二つ目は、電子は有限の大きさを持つ球であり、その表面に一様に電荷が分布している、という説である。この二説にはそれぞれ難点がある。

2.2

まず、一つ目の説を検討しよう。

この説の一つ目の難点は、電子の自己エネルギーが無限大となってしまうことである。いま、-q の電荷を持つ二つの点電荷が、距離 r だけ離れたところで静止しているとしよう。このとき、二つの電荷の間に貯えられる静電エネルギーは、q2 / r に比例する。ここで、距離 r を 0 に近付けると、エネルギーは限りなく大きくなる。

もしも、電子が点であると考えるならば、有限の電荷 -e を一点に集めるのに必要なエネルギーは、無限大となってしまう。これが一つ目の難点である。

しかし、自己エネルギーが無限大になってしまうこと自体は問題ではない、という見方もある。点電荷の自分自身に対する作用を考えることに、意味があるだろうか。

二つ目の難点は、輻射抵抗である。一般に、電荷をもつ物体が加速度運動をすると、電磁波を放射する。電磁波は運動量を持つので、荷電物体はその反作用を受ける。そこで、電子の場合、いったい何から反作用を受けているのか、という問題が生じる。

物体の大きさが有限であれば、その物体を構成する二つの部分が互いに作用している、と考えることもできる。しかし、真空中に一個の電子しか存在しない場合でも、電子はこの反作用を受けるだろう。

この場合、電子は自分自身に作用を及ぼしていると考えざるをえないが、そうだとすると、一つ目の自己エネルギーの問題を無視することはできなくなる。

2.3

さて、もう一つの説、電子が有限の大きさを持つ球だという説を検討しよう。

この場合、まず、電荷がどのように分布するか、という問題がある。ポアンカレは、球の表面に一様に電荷が分布していると考えた。そして、反発し合う電荷を球の表面に縛りつけておくための、特別な力を導入した(ポアンカレ応力)。

ここで、次のことを考えてみなければならない。球の表面に分布している電荷には、大きさはあるのだろうか。もしも大きさがないとすれば、前の説と同じ難点が生じるだろう。

一方で、もしも大きさがあるとすれば、それはどのような形をしていて、電荷はどう分布しているのだろうか。結局、球面に分布する小電荷に対して、電子に対してと同じ問題が提起されうるだろう。したがって、この説には、議論の無限後退という難点があることになる。

2.4

上述の二説は、純粋に古典力学的なものである。では、量子力学は、電子の大きさについて何を語っているだろうか。

量子力学においては、電子の大きさが問題にされることはほとんどない。電子が質量を持つことは分かっているので、観測される質量と電荷素量が分かっていれば、量子力学を記述する上で何の問題もない。

量子力学では、電子は波と粒子の両方の性質を持っていると言われる。このことは、次のように理解できる。

ある時刻における電子の波動関数は、それを空間に広がる確率の波として表現する。観測者が電子を観測することによって、波動関数は収束し、電子は空間上の一点に粒子として現れる。

では、粒子として現れたときの、電子の大きさを定義する方法があるのだろうか。その大きさが定義できないのならば、どうしてそれを粒子と呼ぶことができるのか。それはどのような意味で粒子なのか。

例えば、二重スリット実験において、電子はスクリーンに染みを作るだろう。そのときの電子を、粒子と呼ぶことができるのだろうか。たしかに、波動関数の広がりから言えば、電子が観測される領域は点であるといってもよいだろう。だからといって、電子が実際に大きさを持たない点として存在している、とは言えないだろう。

ゆえに、量子力学においても、電子の大きさの問題は解決されていないと言える。

3 電子は物質か

では、電子は物質だろうか。

もしも、物質は大きさを持たねばならないのだとすれば、電子は物質ではない。我々は、電子の大きさを定義することはできないのだから。

3.1

不確定性原理によれば、電子の運動量と位置の両者を同時に、任意の精度で測定することはできない。我々は、水素原子核の周囲に存在する電子に対してこの原理を適用することで、水素原子の大きさを見積もることができる。水素原子の大きさとは、その核を囲む電子の雲の大きさである。

水素原子核の周りを電子が運動している。原子核はプラスの電荷を持ち、電子はマイナスの電荷を持つので、原子核と電子の間には静電引力が生じる。しかし、電子が原子核に近づくことはない。なぜだろうか。

それは、電子が一定の運動量を持って、引力と垂直の方向に運動しているからである。それは、太陽の周りを巡る地球の運動と同様である。このとき、地球の軌道半径は、地球の持つ運動量によって決定されている。それと同じように、電子の持つ運動量に応じて電子の軌道半径は決まり、それが原子の大きさとなる。

しかし、電子がつねに同じ運動量を持っているとは限らないのではないか。もしも、それぞれの原子において、電子の持つ運動量が異なるならば、水素原子の大きさはまちまちになってしまうだろう。

だが、電子の持つ運動量は均一でなければならず、したがって、原子の大きさも均一でなければならない。なぜならば、水素原子の発する固有スペクトルは、つねに一定の振動数を持っており、その事実を説明するためには、電子の軌道は、どの水素原子においても同一でなければならないからである。

不確定性関係は、まさにこの事情から導かれたのである。それは、水素原子の電子軌道に均一性をもたらすための要請である。

しかしながら、電荷を持つ物体が加速運動を行えば、電磁波を放出するはずである。では、なぜ、原子核のまわりの軌道を巡る電子は、電磁波を出さないのか。

それはおそらく、水素原子の内部では、何も運動していないからであろう。原子内部の電子の運動は、定義できないのではないか。しかし、電子の運動が定義できないとすれば、その質量は何を意味するのだろうか。

さて、ここまでの議論から、次のように推測することは自然であろう。電子は物質ではない。それはむしろ、物質の持つ性質であると言える。

3.2

電子が移動することはよく知られている。それは金属の中で自由に運動するし、陰極線として移動することもあり、二つの原子間を飛び移ることもある。

では、電子が運動するのはどのような場合か。

それは、電場がかけられたときと、電子を持つ物体が運動するときである。

不思議なことは、物体の運動と、その中を流れる電流の運動が区別できることである。これは通常、次のように説明される。電流を担う物質は、電流を通す物質とは別のものであり、物質中を電流の担体が移動することで、電流が生じる、ということである。

その担体は、どれほどの大きさでありうるだろうか。それは小さくなければならないのか。それとも、大きくてもよいのだろうか。もしも電子が、それ自体物質ではなく、物質の持つ性質に過ぎないのだとすれば、その大きさは、それを含む物体の大きさに等しいと考えるべきではないだろうか。

そうすると、物質には二種類の運動があることになる。場所の移動と、物質内部の電流を生じる運動である。そのとき、電流の持つ慣性作用として、電子の質量は理解されるだろう。

3.3

また、電流は、外部の電磁場と相互作用を行うであろう。それが輻射を可能にするはずである。

しかし、ある電流要素が、他の電流要素と相互作用する可能性を考えるべきだろうか。

電流のそれぞれの要素が空間的に局在しているとすれば、それらの間の相互作用を考えることもできるだろう。だが、それをどのように分割するべきか、我々は知っているのだろうか。もしも、電流が一つの実体であり、導体の全体に存在しているとしたら、それを分割して考えることが許されるだろうか。

電子の大きさが物体と等しいとしたとき、問題となるのはこのことである。それは数えられるのだろうか。導体中においては、電子はお互いに相互作用することはありえず、外部の電磁場とだけ相互作用するのではないだろうか。

静電相互作用は、電荷をもつ物体間に働くものである。したがって、それは電子間には働かないのではないだろうか。この区別は、同一の物体中に存在する電子群について考えるときに、重要になってくる。静電相互作用が働くのは、物質として存在する電子、つまり、物質の限られた領域に局在する電子の間にであって、物質全体に行き渡った電子間には働かないだろう。

このように考えると、電子相関における局在効果の重要性が分かる。電子間に相互作用が働くのは、それが局在しているときだけである。

しかし、この仮説では、電子が局在する条件については何も語られていない。もしも、電子の局在が静電相互作用のせいだとすれば、説明の順番は逆になるだろう。

また、以上のように考えるならば、伝導電子を取り扱う際に、一粒子近似が成り立つ理由も分かる。それは近似ではないからである。

4 Stern-Gerlach の実験の再解釈

4.1

真空中に一個の電子があったとする。外場が全くない場合、空間は等方的であると考えられる。

このとき、電子の磁気モーメントは、どの方向を向いているだろうか。電子の作る電場は等方的だが、磁気双極子の作る場は異方性を持つ。それが回転する理由はないから、一定の方向を向いているはずである。それはどの方向だろうか。

そのような方向は、存在しない方がよい。孤立した電子の作る場は、等方的でなければならない。

ゆえに、我々は次のように考えるべきではないだろうか。電子にとって最も基本的な状態は、二電子がスピン・シングレットを構成している状態である、と。この状態の電子は、完全に等方的でありうる。ただし、それは磁気双極子でも四重極子でもなく、磁場はゼロでなければならない。

4.2

この電子対に磁場がかけられたとき、はじめて電子は二つに分かれる。二つの電子は互いに反対向きで、磁場に沿った磁気モーメントを持っているはずである。

このように考えれば、Stern-Gerlach の実験も理解しやすくなるのではないか。はじめから任意の向きの磁気モーメントを持つ電子が存在するならば、実験結果は連続的な像になるはずである。しかし、もしも電子の磁気モーメントが、外場が加えらえれることで初めて現われるのだとすれば、正反対の二つの磁気能率に対応する像しか現れないことにも、説明がつくだろう。

ただし、この場合、外場が加えられ始めたときに、どのように電子の磁気モーメントが現われるか、ということは明らかではない。また、それが初めから有限の大きさを持つことも説明できない。

今は、これらの問題を力学的に解明することはできない。それでもなお、この仮説は、空間の等方性と物質の磁化の存在という二つの異なる事実から導かれる、自然学的な必然と言えるだろう。

第二部 光子

5 光は実在するか

5.1

プランクの輻射公式においては、黒体輻射のエネルギー密度は

u_{\nu}d\nu = 
\frac{8 \pi h \nu^{3}}{c^{3}} \frac{1}{e^{h \nu / k T} - 1} \, d\nu    (1)

と表される [2]。ここで、uν は振動子 ν の輻射のエネルギー密度である。一方でこれは、基本周期を τ とした輻射のフーリエ展開

E_{z} =
\sum_{n=0}^{\infty} C_{n}
\cos \left( 2 \pi n \frac{t}{\tau} - \theta_{n} \right)    (2)

と、電磁気学の公式

u = \frac{3}{4\pi} \overline{E_{z}^{2}}    (3)

を用いて、

u_{\nu} d\nu =
\frac{3}{8\pi} \sum_{n}^{n + \Delta n} C_{n}^{2}    (4)

と表すことができる。ここで、周波数成分が ν と ν + dν の間に含まれる輻射の数を Δn で表した。つまり、dν = Δn /τ である。ここで、n と n + Δn の間に含まれる輻射の強度の二乗平均を

\overline{C_{n}^{2}} =
\frac{1}{\Delta n} \sum_{n}^{n + \Delta n} C_{n}^{2}    (5)

と表そう。すると、

u_{\nu} d\nu =
\frac{3}{8\pi} \tau \, \overline{C_{n}^{2}} \, d \nu     (6)

となる。(1) と (6) より

\overline{C_{n}^{2}} =
\frac{64 \pi ^{2} h \nu ^{3}}{3 \tau c ^{3}}
\frac{1}{e ^{h \nu / k T} - 1}     (7)

となり、これは高周波極限において

\overline{C_{n}^{2}} =
\frac{64 \pi ^{2} h \nu ^{3}}{3 \tau c ^{3}} \,
e ^{- h \nu / k T}    (8)

となる。

これは、黒体輻射のフーリエ成分に加えられる制限と解釈できるだろう。黒体輻射のスペクトルを再現するためには、フーリエ成分の強度 Cn は、短波長に行くにつれて

e^{-h \nu / 2 k T}

の程度で減少しなければならない。

これは、次のように解釈できるだろう。我々ははじめ、黒体輻射をフーリエ展開するときに、そこに何の制限も加えなかった。無限に多くの高周波成分の存在を許したのである。しかし、空間の有限の領域に、無限の数の電磁波が存在することが許されるだろうか。

もしも、有限の領域の中には、有限の量の実体しか存在しえないならば [3,4]、そこに含まれる電磁波の量も有限でなければならないのではないか。

この見方は、それぞれの周波数成分に対応する電磁波を、一つの実在とみなすことを前提としている。しかし、電磁波がそれ自体でエネルギーを持つと考えるならば、この見方は正当化されるだろう。

有限の領域に無限に多くの電磁波が存在することは許されず、また、熱輻射においては、任意の周波数近傍にどれだけ多くの電磁波が存在するか、ということには何の仮定も置かれていないのだから、高周波側に進むにつれて、その存在確率が低下してゆくという仮定は妥当であると考えられる。

他に、ある程度以上の周波数成分をカットオフするという方法も考えられるが、その場合、カットオフを行う周波数の選択に任意性が残るだろう。

また、Rayleigh-Jeans の公式の破綻は、有限の空間領域に無限に多くの電磁波が存在しうる、という古典的な仮定が不合理であったことを示していると考えられる。

5.2

しかし、この考えを進めると、次のような問題が生じる。(7) 式において、空間の尺度は一つも現れていないのである。つまり、黒体輻射で満たされている領域の体積を二倍に増やしたとしても、それぞれの周波数成分の存在確率は変化しない。それは純粋に温度だけによって決定される。

一方で、我々の考え、有限の領域には有限の量の実体しか存在しない、という考えからすれば、空間領域が二倍になれば、より多くの周波数成分の存在が許されてもよさそうに思える。

しかし、輻射の分布は温度だけによって決まるのだから、それは許されない。つまり、電磁的な実体の量は空間の大きさによって決定されるのではなく、温度によって決定されるのである。

そもそも、輻射の公式 (2) は、空間上のある一点における電場の成分を表現しているのだから、それが空間スケールによらないことは明らかである。それゆえ、輻射のエネルギーは体積に比例して増加する。

つまり、プランクの公式は前-空間的な表現であるといえる。それは空間的な変数を持たず、それゆえに、空間の絶対的な尺度を与えることができる。このことは、輻射という現象が、本質的に空間と無関係であることを意味しているのではないか。

5.3

プランクの輻射公式の導出は、輻射を放出・吸収する振動子の存在に依存している。つまり、プランクが計算したのは振動子のエントロピーであって、輻射のエントロピーを直接計算することはできなかったのである [5]。

ここで一度、光子のエントロピーを計算することを考えてみよう。

例えば、振動子 ν の光子の持つ、振動数の幅はどれくらいだろうか。つまり、ある原子のスペクトル線の幅は何によって決まるのだろうか。

それは、その光子の放出に対応する量子的な状態遷移の確率と、ハイゼンベルグの不確定性原理とによって決定される。では、光子の持つ振動数の幅とエントロピーとの間には、どんな関係があるだろうか。

一般に単色光は、ある範囲の振動数を持つ、様々な光の重ね合わせとして表わされる。どんなスペクトル線も幅を持つということから、このことは光子に対しても当てはまる事実である。

では、一つの光子を構成する振動数の組み合わせが、その光子の持つエントロピーに関係しない、ということが考えられるだろうか。エントロピーを配位数の対数とみなす限り、そのように考えることはできないはずである。

実際に、このようなやり方で単色光の配位数を計算してみてほしい。あなたはいずれ、それが無意味であることに気づくだろう。どのように工夫しても、それはプランクの公式とは一致しない。

電磁輻射がエントロピーを運ぶとしたら、それは、ボルツマン的な意味でのエントロピーとは異なった種類のものだろう。なぜならば、我々は輻射の配位数を計算することはできないのだから。とくに、それをプランクの公式と一致させるような状態の数え方を見出すことは、不可能である。

我々は、このような経験を前にして、次のことを認めざるをえない。光の性質は、光子そのものによっては決定されず、むしろ、光に関係する物質の性質として決定される、ということを。

そして、このことを認めたならば、次のように考えを進めることは自然だろう。光の性質がすべて物質によって決定されるのならば、光が実在すると考えなければならない理由はあるのだろうか。我々はむしろ光を使わずに、物質どうしの関係として、エネルギーやエントロピーの輸送という現象をとらえるべきではないのだろうか。

5.4

陰極線の実験において我々が観察するのは、陰極―陽極間に流れる電流と、陽極における発光現象である。このとき、電子の運動は観察されない。それは仮想的なものである。我々は、そこに電子という実体の運動を仮定することによって、空間という概念に到達するのではないか。

光について考えるとき、このことははっきりする。我々が観察するのは、色であって光ではない。黒体輻射においては、光子気体がエネルギーを持っていると考えられている。しかし、我々が実際に観測できるのは、光を放射する物質の性質であって、光そのものの性質を測ることはできない。

輻射によるエネルギー輸送の過程においては、物体 A から B に、光によってエネルギーが運ばれる。この際、エネルギーの輸送には有限の時間がかかるので、その間、エネルギー保存則を成り立たせるために、光という実体が存在し、それが失われた分のエネルギーを担っている、と考えられている。

だが、我々はこの光を直接観測することはできない。我々に観測できるのは、A におけるエネルギーの減少と、B における増加だけである。もしも、A と B の中間に観測装置が挿入されるならば、それを B の代わりに B’ とおけばよい。そうすれば、A と B’ の間に同じ議論が成り立つ。

光の存在を仮定することによって、エネルギー保存則は成立する。しかし、エネルギー保存という概念を、因果律を意味するものと考えるならば、我々は、A においてエネルギーが減少した時点と、B においてエネルギーが増加した時点を、同時と考えてもよいのではないか。そのとき、光の実在を仮定しなければならない理由があるだろうか。我々は、A と B のエネルギー収支のみによって理論を作るべきではないのか。

この見方は、相対性理論によっても支持される。なぜならば、相対論においては、光の固有時間で考える限り、A と B は同時だからである。

光子の存在を放棄することで、我々ははじめて、相対論と量子論の関係を理解することができるようになるだろう。

6 新しい物理学

6.1

統計力学において、原子は一種の仮定として導入された。

しかし、そのようにして構築された理論の結果は、いくつかの実験結果とは一致しなかった(二原子分子気体の比熱、固体の比熱、黒体輻射など)。そこに量子力学が現れ、問題は解決された。統計力学の結果は実験と一致し、一つの科学理論として認められるようになったのである。

だが、その過程において、そもそものはじめに立てられた仮説は、どこまで有効性を持っていたのだろうか。原子が存在するという仮定を、統計力学は最後まで持ち続けていられたのだろうか。むしろ統計力学は、原子という仮定を放棄することによって、実験結果を説明できるようになったのではないか。

たとえば、分配関数に掛かる因子 1 / N! は何を意味するのか。

ボルツマン定数とアボガドロ数の積が、気体定数と等しくなるのはなぜか(アインシュタインはこの事実に戸惑っていたようである [6])。

そして、そもそもプランク定数の意味とは何か。

量子力学は、統計力学を種々の実験結果と一致させることに成功したが、それは原子の存在を消去することによってであった。そして、誰もそれが意味することに気づかなかったのである。

量子力学に最も近接した思想は、デモクリトスのそれではなく、むしろエレア派やメガラ派の、運動否定の思想ではないだろうか。なぜならば、量子力学は運動を記述できないからである。

6.2

量子力学が記述するのは、ある状態から別の状態への跳躍である。それは、一枚の写真から、別の写真へ飛び移るようなものである。そして、量子力学が我々に提示できるのは、二つの状態の間に飛躍が生じる確率、つまり遷移確率だけである。量子力学は、運動を全く記述できていない。

ゼノンの飛ぶ矢のパラドクスを例にして言えば、量子力学が記述するのは、ある瞬間の矢の状態が、別の瞬間の矢の状態に遷移する確率だけであり、そこでは、矢を常に止まっているものとして記述しているのである。矢がどのように飛んだかということ、そして、矢が飛ぶというのはどういうことであるか、ということを、それは記述できていない。そもそも、矢が飛ぶ過程を考えることは無意味なことだと、量子力学は主張している。

けっきょく量子力学は、ゼノンのパラドクスを肯定しているだけで、解決していない。量子力学においても、やはり矢は飛んでいないのである。

我々は運動を記述しなければならない。矢がどのように飛んでいるか、ということを説明しなければならない。

6.3

有限の空間・時間に含まれる実体の量は、有限でなければならない。我々はかつて、それを原子という概念で表現しようとしたが、それはもはや不適切であることが明らかになった。我々は、有限の連続体を表現する方法を探さねばならない。

我々に必要なものは、相補性などというごまかしではなく、理解可能な説明である。(終)

参考文献

  1. 『ファインマン物理学 II、IV』ファインマン、レイトン、サンズ著、富山小太郎、戸田盛和訳、岩波書店、1968、1971年
  2. 『熱輻射論(物理科学の古典7)』プランク著、西尾成子訳、東海大学出版会、1975年
  3. 『アリストテレス全集3 自然学』出隆、岩崎允胤訳、岩波書店、1968年
  4. 『カント全集 第10巻 自然の形而上学』「自然科学の形而上学的原理」高峯一愚訳、理想社、1966年
  5. M. Badino, The Odd Couple: Boltzmann, Planck and the Application of Statistics to Physics (1900-1913), Annalen Der Physik, 18, 2-3, (81-101), (2009).
  6. 『光量子論(物理学古典論文叢書 2)』「輻射の問題の現情について」アインシュタイン著、高田誠二訳、東海大学出版会、1969年

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原子論批判.pdf

<参考>
相対論の限界
熱交換について
粒子によらない物理学

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