稲川淳二の怪談で、よく覚えている話がある。ある寺の住職が、今はまじめな人だが、若いころは遊びまわっていた。あるとき仲間と一緒にサーフィンに行ったが、一人が夜になっても宿に帰って来なかった。あまり気にせず寝ていると、深夜に警察が尋ねて来て、遺体安置所に連れていかれる。そこである遺体を見せられて、これはお連れ様ですか、と確認を求められる話である。
この話にはまだ続きがあるのだが、オチは省略する。何が言いたいかというと、怪談には後ろめたさが伴うということである。この話では、主人公は仲間と遊びながらも、こんなことをしていてもいいのだろうか、という心の葛藤を抱えていることが分かる。その微妙な心理の揺れがあるから、怪談が生まれるのである。
怪談にはどこか教訓話めいたところがあって、過去に起きた失敗や、不幸な出来事を忘れないようにしたい、という思いが反映されている。幽霊には必ず由来があり、その幽霊が出るようになった原因がある。事件や事故によって命を落とした人があり、それが幽霊となって祟りをなす。過去の出来事が現在に影響するというその因縁譚こそが怪談であって、そこで我々は過去と現在のつながりに気付かされるのである。
怪談はある意味で、過去と未来が交差するところに生じる。怪談における過去が、自分の人生の未来になるかもしれない、というところに怖さがある。それがどうにも面白い。
稲川淳二の怪談話は、必ず全集を作ってまとめなければならない。有名な文学者の作品はみな全集にまとめられているが、それと同じように、稲川怪談も将来のために記録されるべきである。