意味ニューロンの解説

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チョムスキーの生成文法は、文章の構成規則を説明するものであり、言語に対する本質的な理解とはなりえない。生成文法は、いわば言語の表層を扱う理論である。

彼は、言語学を科学にすることを目的にしているらしいが、彼のやり方では難しいと思う。なぜなら科学とは、仮説を立ててそれを検証することではなく、因果律に基づいて自然を説明することだからである。この点は、彼のみならず、多くの知識人が誤解していることである。科学の本質は実証性ではなく、因果律である。因果律があるからこそ、実証性が意味を持つのであって、その逆ではない。この違いは何度でも強調されねばならない。

さて、では、言語の本質とは何だろうか。文法の規則が言語の本質ではないとすれば、言語能力とは何であるのか。

私は、言語の本質は意味であると考える。それぞれの言葉には意味があり、意味が分かるからこそ、話が通じる。私が机と言えば、あなたにはその意味が理解できる。机と聞いたときに机が何であるか分からなければ、意思を伝えることはできない。お互いに単語の意味を理解しているということが、言語使用の基本である。したがって、科学的に人間の言語機能を理解するためには、まず認識能力からアプローチしなければならない。なぜ人間は、それぞれのものを認識できるのか、そしてそれを他のものから区別できるのか。この問題を解き明かすことが、言語理解への第一歩である。

ここで私は、意味ニューロンの存在を仮定した。それぞれの言葉の意味に対応する単一のニューロンが、脳内に存在するという仮定である。これは非常にシンプルな仮定であり、詳しく説明する必要もないくらいである。ミラーニューロンやおばあさんニューロンの存在を知っている人であれば、この仮定はすんなり受け入れてもらえるのではないかと思う。この仮定によって、言語使用の現実的な面、つまり実際の行動に関わる言語使用や、また動物における認識と行動の関係を、直観的に理解できるようになった。

さて、難しいのはここからである。それは、このニューロンの存在を、いかにして証明することができるか、という問題である。これがただの仮説ではないことを証明するためには、何が必要なのか。むろん実験によってそれを発見することができれば、それ以上に明確な証拠はない。しかし、実験によらなければ理論の確実さを証明できないようでは、本当の科学理論とは言えない。これまでに得られている手掛かりに基づいて、可能な限り厳密な証明を与えることを考えなければならない。

そこで私は、また一つの仮定を置いた。それは、人間の認識作用は、認識と同時に生じる神経活動と、一対一の対応関係を持っている、ということである。たとえば、あなたが机を見たときに、それが机であると認識する、その認識作用に対応する神経活動が、あなたの脳内で生じているとしよう。次に、猫を見せられたときに、あなたはそれが猫であると認識し、その認識作用に対応する神経活動が、あなたの脳内で生じるとしよう。このとき、この二つの神経活動は、互いに異なっているのでなければならない。そうでなければ、あなたは机と猫を区別できないことになるからである。

このように、それぞれ異なったものの認識に対応する神経活動は、互いに異なっているはずである。この点に注意することで、意味ニューロンの存在を理論的に導くことができる。詳しくは「精神の本質」を参照してほしい。英訳版も公開している。

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もう少し詳しく説明しよう。

心と脳の関係については、昔から様々な考察がなされている。神経活動によって心が生じるとか、そもそも心は存在しないとか、心と脳は無関係だとか、色々な意見がある。ただ、誰しもが否定しえないことは、脳の活動と心の活動の間に相関関係が存在するということである。むろんそれをも偶然の産物だとする強弁も成り立つが、それでも両者が何らかの仕方で対応していることは事実である。そこで私は、そこにどんな関係があるのか、ということについて一切の仮定を置かずに、両者の相関のみに注目して議論を進めることにした。

心の中である現象が生じたとき、脳内にもある活動が現れる。それらは互いに対応しているはずだ、ということである。心の中でAという現象が生じたときには、脳内でaという活動が生じ、心の中でBという現象が生じたときには、脳内でbという活動が生じる。Aとa、Bとbがどのような仕方で関係しているかは明らかではない。ただ、Aとbが対応することはなく、Bとaが対応することもなく、Aは必ずaと、Bは必ずbと対応するならば、その事実を手掛かりにして理論を組み立てることができる。

もちろん、このような対応関係が存在するということ自体、一つの仮定にすぎない。しかしそれは、いままでの研究によってある程度明らかにされていると判断できる。

因果律が現れるのはここからである。まず、脳内の現象は全て因果律に基づいて生じると仮定する。これは自然な仮定である。そうすると、脳内のある時点における状態は、それに先行する状態によって決定される、と考えることができる。ここで決定論と量子力学の問題が顔をのぞかせるが、さしあたっては、脳内で生じる過程は全て決定論的であると仮定する。すると、脳内でaという活動が生じるためには、その開始時点における状態は、bとは異なっていなければならず、また、その後の全ての時点で、aとbの状態は互いに異なっていなければならない。

たとえば、我々が机を認識するときの脳の活動と、猫を認識するときの脳の活動は、最初から最後まで、一度も一致することはない。これは至極当然のことである。そしてこの関係は、我々が識別しうるすべての事柄について厳密に成り立つ。

ここで私は、また一つの仮定を置いた。それは、互いに区別されるそれぞれの事物の認識に対応する神経活動を代表する、単一のニューロンが存在するということである。これは純粋な仮定であって、そのようなニューロンが必ずしも存在すると言えるわけではない。仮に存在しなくとも、脳内でそれぞれの神経活動が区別されるならば、言語を生み出すことはできるはずである。つまり意味ニューロンは、もっぱら理論の単純化のために仮定されたものである。

さて、以上が意味ニューロン仮説のあらましである。上掲論文において、議論はこの後、脳の学習能力を含めた形で一般化されてゆくことになる。


私は冒頭でチョムスキーを批判するようなことを言ったが、最近彼が主張しているMergeという概念は、いい線を行っていると思う。彼のMergeと意味ニューロンを合わせれば、文法を含めた言語機能の解明が期待できるかもしれない。

ただし、文法の問題を直接脳科学の中に持ち込むべきではない。それは必ず因果律を意識した形に作り直されねばならない。

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