三界の狂人(2)

現代人は現実よりも言葉を重んじる。これは貨幣をめぐる問題についても同様である。

貨幣

格差とは何か。格差とは、貨幣の保有量が人によって異なる、ということである。多くの貨幣を保有している人もいれば、少ない貨幣を保有している人もいる。これが格差である。

では、貨幣とは何か。貨幣とは銀だろうか。貨幣とは紙だろうか。貨幣とは信用だろうか。

貨幣とは言葉である。それは言葉としてしか存在しないものである。我々は、たとえば通帳の預金残高を貨幣だと考える。実際には、それはただの文字である。

その文字の大小をめぐって、格差があるとかないとか言われる。現代人は、それこそが大問題であると考える。現実には、人が生きるために必要なものは食料であって、貨幣ではない。貨幣は言葉にすぎず、それによって人が生きることはできない。我々は貨幣ではなく、食料に基づいた経済を構築しなければならない。それこそが現実的な経済である。

イエスは、人はパンのみにて生きるにあらず、と言った。食料よりも言葉の方が大事だ、という意味である。これは狂気である。実際には言葉があっても、食料がなければ人は飢えて死ぬ。この現実を否定することから、世界的な食糧危機が生じている。西洋文明は狂気の文明である。

差別

差別の問題も同様である。差別は言葉から生まれる。ユダヤ人、という言葉に対応する実体があると思うから、ユダヤ人差別が生まれる。実際には個々の人間が存在するだけで、「ユダヤ人」というものは存在しない。

ユダヤ人にはこれこれの性質がある、と人は言う。それは比喩的な言葉の使い方であって、本当は、これこれの性質を持つ人間が、同時にユダヤ人という性質も持っている、と言うべきところである。

もちろん、ユダヤ人に特有の性質がある、という主張も間違いではない。そうしたことは十分にありうることである。多くのユダヤ人が他とは区別されるような性質を持っている、ということが経験的に分かっているのであれば、こうした主張は許されるだろう。ただ、その境界があいまいなものであることは留意されねばならない。ユダヤ人という概念が、他の概念から区別されうるほど明瞭な特徴を持っているかどうか、事前に分かっているわけではない。

概念には、生得的な概念と文化的な概念がある。生得的な概念とは、たとえば虎や狼、蛙や猿などである。こうした生物種を意味する概念は、非常に強固な基盤を持っている。つまり、人間であれば誰もが、虎と猿を区別できるということである。男と女、水と油なども同様である。これらは、我々が世界を認識するときの基礎となる概念である。

一方で、ユダヤ人やゲルマン人といった概念は、文化的に作られたものであって、それほど強固なものではない。こうした文化的な概念は、生得的な概念とは区別されねばならない。猿と蛙の境界ははっきりしているが、ユダヤ人とゲルマン人の間に境界は存在しない。あるいは、後者の境界は、前者の境界ほど強固なものではない。

蛙は長い後ろ足を持ち、ぴょんぴょん飛び跳ねる。虎は黄色と黒の縞模様で、鋭い牙と爪を持つ。これらは蛙と虎の定義のようなもので、変化することはない。一方で、ユダヤ人は金に執着する、といった命題は、時間によって移ろいゆくものであり、また、人によって当てはまったり当てはまらなかったりする。その意味で、前者の命題ほど強固なものではないが、しかし全く間違いだとも言えない。というのも、実際に多くのユダヤ人が金に執着しているのだとすれば、この命題にも一般的な妥当性があると言えるからである。

大事なのは、事実と言葉を区別することである。ある人がユダヤ人であり、その人は金にうるさい、ということはありうる。またもしかすると、ユダヤ人に共有されている文化や宗教の中に、人を金に執着するように導く要素が含まれているのかもしれない。その可能性を否定することはできない。

ユダヤ人だから金にうるさい、という推測は言葉に基づくものであるが、ある人は金にうるさい、という命題は事実に基づくものである。しかし、ある人がユダヤ人であるということと、その人が金にうるさい性格であるということの間に、因果関係があると言えるのであれば、前者の推測も肯定されるだろう。

たとえば、ユダヤの聖典の中に「金を大事にしなさい」という言葉があれば、ユダヤ人が金に執着するようになることにも、理由があると言えるだろう。そして、実際そうである。ユダヤの昔話は、金に絡む話が多い。そうした文化の中で育った人間が、金にがめつくなるのは自然なことである。もちろん、すべてのユダヤ人が金にうるさい、と言うことはできないが、金にうるさいユダヤ人が多い、とは言えるかもしれない。

思考

人間は教育によって作られるものである。人間には差異がある。生まれ持った性質の違いがあり、育った文化や教育の違いがあり、そうしたことを原因として、人間はそれぞれ違ったものになる。

人間の心は変化するものである。私は、今までに見たことがないものの姿を記憶していることはないし、今までに聞いたことがない音を覚えていることもない。私が記憶しているものは、私が今までに経験したものだけである。経験が原因となって、記憶が作られる。これが因果関係である。

私が書くことのできる漢字は、今までに見たり書いたりしたものだけである。私が考えることのできる思想は、今までに読んだり聞いたりしたものだけである。このうち前者を肯定する人は多いだろうが、後者を肯定する人は少ないかもしれない。

思考は自由である、と考える人がいる。実際には、その考えも人から学んだものである。また、人間の精神は因果律に縛られない、と考える人がいる。だがその命題は、人間の精神は因果律に縛られる、という命題を原因として生じたものである。彼は、人間の精神と因果律との関係を考察し、しかる後に上記の命題を主張した。つまり、その考察が原因となって、その命題が生じたわけである。というのも、彼が何の考察もなしにその命題を主張したのだとすれば、その命題には何の価値もないことになるからである。

思考を原因として言葉が生じる。もしも思考を原因としない言葉があるならば、それは無意味である。そして思考は、教育によって身に付けられるものである。

たとえば、種子島の猿が芋を洗う話がある。あるとき一匹の猿が芋を洗うと、それを真似して他の猿も芋を洗い始めたという。これは、芋を洗うという思考を、猿が学習したことを意味している。

猿にも思考がある。芋を見てそれを洗う猿と、洗わない猿がいる。そこにどんな違いがあるのか。同じ対象を前にして、異なる行動をとる二匹の猿がいるならば、それをもって我々は、これらの猿は異なった思考を持っている、と言う。

ある猿は、芋を見て洗うべきだと判断し、それを洗う。別の猿は、芋を見て洗うべきだと思わず、それを洗わない。これが思考である。思考の違いが行動の違いを生む。思考とは、行動の原因となるものである。これが思考の定義である。それがどのような仕組みによって実現されているかに関わらず、行動の原因となるものを思考と呼ぶ。

そして、思考は学習されるものである。ゆえに、どのような思考を学んだかによって、人の行動は変化する。これが、教育が人を作るということである。

教育

猿も学習をするが、人間も学習をする。猿と人間の違いは、言葉を使うかどうかである。猿は言葉によって学ぶことはできないが、人間は言葉によって学ぶことができる。これが、人間が人間たるゆえんである。

人間は言葉によって学習し、思考を学び、行動を変えることができる。だからこそ教育が重要なのである。受けた教育の違いによって、人間は異なるものになる。同じ状況を前にして、異なった行動をとるようになる。それが心の違いである。

心とは、人間を動かすものである。まず、思考が人間を動かすことは前述のとおりである。今日は雨が降りそうだと思ったら、傘を持って出かけるし、そう思わなければ傘を持たずに出かける。思考の違いが行動の違いを生む。

感情も同じである。感情は人間の行動に影響を与える。うれしい気持ちのときは積極的な行動をとるし、悲しい気持ちのときは消極的になる。ある意味で、感情は思考の道具である。我々は、最終的には思考によって自分の行動を決めるが、感情はそれを判断するための要素となりうるものである。つまり、感情は思考に影響を与えうるし、それによって行動に影響を与えうる。他の心の要素も同様に、我々を動かす作用がある。

心には生まれ持った性質もあるし、学習によって変化する部分もある。人間の心は変化する。それをよい方向に変化させることが教育の意義である。


では、よい心とは何か。我々は教育によって、人の心をどう変えればよいのか。

答えは明確である。よい心とは、道徳的な心である。人を思いやることである。善を行い、悪を避けることである。こうした行動がとれるように、人を変えることが教育である。


では、どのような教育によって、それが可能になるのか。

それは古典を学ぶことである。古典とは孟子であり論語である。これらは人間の心の基礎を形づくるものである。

一方で、ヨーロッパの古典は学ぶに値しない。ヨーロッパの学問は、人の心をよい方向に導かない。それはむしろ人間を堕落させるものである。

タイトルとURLをコピーしました