行き過ぎた個人主義と夫婦別性

夫婦別姓に関する議論をときどき耳にする。日本では夫婦同姓が基本だが、夫婦が別の姓を名乗ることも認めるべきだ、という意見である。

このような主張の背景にあるのは男女同権論だろう。女性が社会で活躍する機会が増えたために、結婚によって姓が変わるという制度に不便を感じる人が増えた。というのも、姓を変えるのはふつう女性の方だからである。そこで、男女の平等を実現するために夫婦別姓が認められるべきだ、という話になる。

しかしながら、姓は本来一族の名前であって、個人の名前ではない。これを個人の生きづらさの問題に還元することは、過剰な個人主義と言わねばならない。

むかしの日本では、女性には姓がなかった。なぜかというと、途中で家が変わるからである。生家の姓と、嫁いだ家の姓は異なるのが普通である。ゆえに姓は、女性のアイデンティティを表示するものではありえなかった。近代以降はこれが形を変えて、結婚によって姓が変わる制度として定着したのだと考えられる。ただし、これは女が夫の一族に入ることを前提とした話である。

一方、たとえば中国では、夫婦は別姓が基本である。というのも、中国では血族の絆が非常に強いので、血のつながっていない女は夫の一族に入れないからである。結婚したあとも、女はもとの一族に属し続ける。だから夫婦で姓が異なるのである。

このように夫婦の姓というのは、その社会における人間関係のあり方を反映したものであって、決して個人に還元できる問題ではない。それを個人の問題にすり替えてしまうことが、現代社会の本当の問題であろう。


私自身は、選択制であっても夫婦別姓に反対である。それはたしかに日本文化の美風を損なうものだと思う。だが同時に、近代日本の家制度も間違いだと思う。それは夫婦別姓と同じくらいグロテスクで人工的な制度である。

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