はじめに
むかしアレキサンダー大王がインドに侵入したとき、土着の王族から激しい抵抗を受けた。彼はペルシャをたやすく征服し、アフガニスタンでは諸部族の抵抗に手こずったものの、七年がかりでこれを平定した。その後、遠征の目的地だったインドに攻め込んだが、そこで進軍の速度が落ちた。勝てなくなったのである。
インド人は強い。我々はあまりそういうイメージを持っていないが、インド人は戦争が強い。アレキサンダーがインドの征服をあきらめたのは、単純に不可能だったからである。
二つの支配層
インドにはカーストというものがあって、バラモンが一番上で、その下にクシャトリアがくる。この二者はどちらも支配階級である。なぜ、支配層が二つもあるのか。バラモンとクシャトリアにはどんな違いがあるのか。
たとえば、プトレマイオス朝という国がある。これは、アレキサンダーが率いていた武将の一人、プトレマイオスがエジプトに開いた王朝で、彼の血を引くものが王として君臨した。ゆえに、支配者はギリシャ人であり、被支配者はエジプト人である。征服王朝においては、支配者と被支配者の人種が異なることは普通である。
プトレマイオス朝の貴族と平民は、人種も違えば言語も違い、文化も互いに異なっていた。両者は全く別の世界に生きていたのである。このように、その国の大多数を占める平民から遊離した支配階級こそが、バラモンである。
むかしインドにおいて、アーリア人の侵入が起きたとされている。彼らは中央アジアからインドに入り、そこに住んでいた人々を支配するようになった。そして、支配者であるアーリア人をバラモンと呼び、被支配者である原住民をシュードラと呼んで、互いを区別した。これがカースト制の起源だと言われている。
バラモンは外からやってきた支配者である。それに対してクシャトリアは、内から出てきた支配者である。その土地にもともと住んでいて、住民の意見を代弁できる有力者が、次第にクシャトリア階級に発達していった。彼らは同じ支配階級であっても、バラモンと対立し、人民の利益を守る役割があった。そのため人々の支持は厚く、信頼関係によって市民と結ばれていた。クシャトリアこそがインド政治の主役であった。
彼らは、いざという時には身を挺して敵と戦い、国を守らなければならなかった。戦いにおける強さこそがクシャトリアの存在意義であり、そういう人々がインドを守っていた。そこには一種の武士道があった。
バラモン教
バラモンは独自の宗教をインドにもたらした。それはバラモン教と呼ばれるもので、インドにおける正統派の宗教である。これに対して紀元前5世紀ころ、バラモン教の権威を否定する思想家たちが現れた。仏陀やマハーヴィーラなど、新宗教の開祖たちである。
彼らはヴェーダ聖典の権威を否定したので、正統派(アースティカ)に対して非正統派(アナースティカ)と呼ばれた。これら新宗教の特徴は、開祖がクシャトリアだったことである。仏陀もマハーヴィーラも王族の出身であり、それゆえバラモンに対して批判的だったと考えられる。
このようなクシャトリア発信の宗教に対して、バラモン側からの揺り戻しが始まる。それがヒンドゥー教である。ヒンドゥー教はバラモン教の延長と考えられることが多いが、そこには著しい違いがある。
ヒンドゥー教の聖典として、『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』が挙げられることが多い。これら叙事詩の主役はみなクシャトリアである。マハーバーラタにおいては、パーンダヴァ五兄弟という王子たちが、いとこの王子たちと国をめぐって大戦争を繰り広げる。ラーマーヤナでは、ラーマとラクシュマナという兄弟の王子が、悪鬼にさらわれた王女を求めて大冒険の旅に出る。どちらの物語でも、一番活躍するのはクシャトリアである。
ヒンドゥー教は、バラモンとクシャトリアの調停を目指した宗教だと言える。バラモン的な要素を取り入れつつも、クシャトリア的な生き方を主眼に置いている。
たとえば『バガヴァット・ギータ―』という聖典があるが、これはマハーバーラタの一節である。主人公の王子たちがこれから戦争に趣こうという時に、クリシュナという神の化身が訓示を行う。そこに示されるのは、戦士たるものこういう戦い方をしろ、恥ずかしくない死に方をしろ、という戦陣訓であり、武士道と呼べるようなものである。それがインド人の倫理を形作っているということは、彼らの精神を理解するうえで非常に重要である。
インドは武士の国であり、武士道の国である。
市民革命とバラモン
戦国時代の日本では、各地に有力な武将たちが根を下ろしていた。上杉や武田や北条など、手ごわい武士がそれぞれの国を守っていた。アレキサンダーは、そういう土地に足を踏み込んだのである。イランは中央集権国家だったので、王様を一人倒せばイラン全土が手に入った。しかしインドにおいては、土地ごとに異なる武将がいて、それらを一人ひとり倒してゆかねばならなかった。それで心が折れてしまったのだろう。
日本における武士は、バラモンではなくクシャトリアである。彼らは本質的に百姓と同じものであり、百姓の利益を代表する存在だった。そして、日本にはバラモンがいなかった。日本人はその歴史を通じて、異民族に征服された経験がない。この点で、日本の歴史は特殊である。
たとえば、ヨーロッパにおいて市民革命が重要な意味を持つのは、ヨーロッパの貴族がバラモンだったからである。貴族は平民とは全く別の世界に生きており、別の人種と言える存在だった。その垣根が壊されたことは、彼らにとって革命であった。
一方で、日本の武士はクシャトリアであり、根は百姓と同じものだった。ゆえに、日本における四民平等は、ヨーロッパにおけるほど重要な意味を持たなかった。この点で、明治と江戸は連続していると言える。むしろ、征服者たるヨーロッパ人と戦った大東亜戦争こそが、日本人にとっての市民革命であった。
市民革命とは、バラモンによる支配の打倒である。ヨーロッパにおいては、それは18世紀の出来事であるが、インドにおいては紀元前の昔に起きたことだった。日本人は全くそれを経験しておらず、自らが支配される前に支配者を倒してしまった。
島国インド
インドと日本はよく似ている。その理由は、どちらも島国だからだろう。インドは一見、周囲の国と地続きになっているようだが、実際は違う。というのも、北は4千メートル級の山脈に取り囲まれ、東には人跡未踏のジャングル、西には過酷な砂漠が広がっている。これら天然の障壁をくぐり抜けてインドに辿り着くには、命がいくつあっても足りない。唯一安全にインドに入る手段は船であり、そのためインドは島国だと言えるし、亜大陸と言われることもある。
むかし日本軍はビルマから熱帯雨林を抜けてインドに出ようとしたが、十数万の兵隊が溶けてなくなってしまった。ジャングルは地球の胃袋であり、不用意に踏み込んだ者はあっという間に消化されてしまう。
また、アレキサンダーの軍隊は、インドからの帰路にイラン国境の砂漠地帯を通った。大王と将軍たちは船でバビロンに戻り、兵隊たちは陸路を進むことになった。その際に、半数以上の兵が命を落としたという。たぶんそれが狙いで、口減らしのためにわざと砂漠を歩かせたのだと言われている。そういう過酷なことをしたせいで、大王は暗殺されてしまった(死因は諸説ある)。
そんな環境だったので、インドは異民族に征服されることが少なかったし、たとえ侵入者があっても、インドを征服することは困難を極めた。むしろインドを統治するためには、武力よりも文化の力による方が効果的だった。たとえばムガル皇帝は、イスラム教とヒンドゥー教の調停者として権威を獲得し、インドを治めることができた。また、アショカ王の碑文も有名である。
たぶん、インドにもバラモンはいなかった。インドの歴史においてバラモンの存在感は小さく、クシャトリアの添え物のようにしか見えない。インドはバラモンの支配を受け付けない国として理解されるべきだろう。
よみがえるバラモン教
だが、それは昔の話である。今の世界は、本当にバラモンに支配されているかのようだ。
これは私の想像だが、たぶんイギリス人は次のようにインドを侵略した。彼らはまずインドの王侯貴族に取り入り、献上品としてイギリスの高価な品々、精巧な時計やら衣服やらを差し出した。王たちはそれに満足し、さらに多くを求めた。しかし、商品を買うには代金が必要だということで、王族から金を巻き上げた。やがて金がなくなると、イギリス人は土地を要求した。王様は土地を割譲して東インド会社に与え、こうしてインドの侵略が進んだ。
ヨーロッパ人は、世界中でこういうあくどいことを繰り返していたのである。これも文化の力と言えなくもないが。
キリスト教やイスラム教はバラモンの宗教である。また、市民革命を導いたロックやルソーの思想も、結局バラモンの域を出ない。ヨーロッパにはクシャトリアがいなかった。クシャトリアが育たなかったのである。
バラモンが空想的であるのに対して、クシャトリアは現実的である。バラモンが神々に犠牲を奉げる一方、仏陀は因果律を説いた。すべてのものは原因があって生じる。ゆえに、因果関係を無視した宗教儀式は無意味である、と喝破した。
バラモンは言葉の世界に遊び、現実を見ようとしない。その特徴はヨーロッパの哲学にも見受けられる。人間は平等だ、という言葉の響きはいいが、では平等とは何かと尋ねても、はっきりした答えはない。平等という言葉が一人歩きして、ある種の神様のように振る舞っているのである。
ヨーロッパの思想はことごとくバラモン的であり、クシャトリア的な要素は微塵もない。それが今や人類社会を覆い尽くしている。世界は古代インドの暗黒時代に逆戻りしてしまったようだ。