亜米利加物語 第一回

祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響あり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす

奢れる人は久しからず
ただ春の夜の夢のごとし
猛き者もついには滅びぬ
ひとえに風の前の塵に同じ

1

ここに一人の男がいた。彼は大勢のみすぼらしい男女を引き連れ、一路北に向かっていた。エジプトで迫害を受けていた人々を救うために、その先導者となり、亡命の旅を続けていたのである。名前をモーセといった。

旅の途中、皆の心が折れかけたとき、彼は一柱の神と出会った。その神は、モーセと彼が率いていた集団に大いなる加護を与え、また戒律を与えた。その戒律に従う限り、彼らは神の力によって守られるはずだった。神との契約である。

だが誰が知ろう、その神こそは欲界第六天の主、魔王波旬に他ならなかった。かの魔王は人をたぶらかし、正しい道から遠ざけることを本性としている。彼はかしこで悲嘆にくれる人々を見出し、その運命を狂わせることにしたのである。

困苦の中にさまよう逃亡者たちは、誰しも神の加護に安堵し、泣き出さんばかりであった。神の奇跡に勇気づけられた彼らは再び歩を進め、やがて約束の地に辿り着いた。神はその民族に幸福を約束したはずだったが、その後も彼らの身にはあまたの苦難が降りかかるのだった。

もしそれが善神であったならば、なぜこの民族は苦しみに満ちた歴史を歩むことになったのか。むしろその神は、ユダヤ人が苦しむたびに歓喜の声を上げていたのではないか。彼らの歴史を見る限り、それは悪神に違いない。偽りの約束によって人をたぶらかす妖魔である。

事実、波旬の約束はすべて噓だった。そして、それを隠すために偽りの戒律を与えた。殺すなかれ、盗むなかれ、犯すなかれ、これは戒律の述べるところである。しかしそこには、嘘をつくなかれ、という項目だけが抜けていた。噓は禁じられていなかった。それは当然、神の嘘を許すための策略であり、こうして波旬はまんまと神になりおおせた。

波旬がまいた毒の芽は、じわじわと周囲に浸透した。それは変化を繰り返し、やがてキリスト教という変種が現れた。預言者イエスに心酔した崇拝者たちは、ギリシャの哲人たちの教理を応用して、その信仰を言葉で武装し、異教徒たちの攻撃から守り抜いた。だが、その核心はうつろであった。波旬のでたらめをどう取り繕おうとしても、矛盾からは矛盾しか生まれない。むしろ矛盾こそが信仰であると開き直り、理性を捨てることをよしとする宗教ができあがった。

それこそが波旬の望みだった。彼には、人間の願望を目の当たりに出現させ、人を惑わせる能力がある。その人が見たいと思うものを見せ、信じたいと思うものを信じさせる。そうすることで理性を失わせ、現実を忘却させるのである。その先に待つ破滅こそが、波旬を喜ばせた。

波旬の宗教を信じる者は互いに争い、傷つけあった。サラセン人がムハンマドこそ真の預言者と主張する一方、ヨーロッパ人はイエスを押し立て、敵と味方に分かれて殺しあった。また、ルターとカルヴァンが現れたときも、聖書をめぐってヨーロッパ中に殺戮の嵐が吹き荒れた。一体どれだけの命が生贄として捧げられたのだろうか。

2

航海技術が発達すると、キリスト教徒は新大陸に乗り出した。はじめはヨーロッパ諸国の植民地として発達したが、新大陸生まれの二世三世の時代になると、宗主国の存在が疎ましくなり、独立戦争が始まった。やがて植民地側の勝利が確定すると、アメリカ合衆国は独立を宣言し、ジョージ・ワシントンが初代大統領に就任した。アメリカ人は自分たちの法律を作り、議会を開き、近代国家の形を整えていった。

入植者たちは以前からインディアンとの軋轢に悩まされていたが、アメリカという国家の成立によって、その争いは新しい段階に入った。というのも、合衆国は白人によって建てられた国家であり、先住民であるインディアンはそこに含まれない。インディアンは、インディアン・ネーションという独立国家の国民とされ、アメリカ法の対象外とされた。彼らは北米大陸に暮らしながら、いかなる法律の保護も受けられなかったのである。これも波旬の計らいであろうか、アメリカ人はいかにも理性的なやり方で、人間の搾取を可能にしたのだ。

また、合衆国憲法には黒人奴隷の記述がなく、その問題をあいまいなままに放置した。それはやがて、アメリカを二分する大きな騒乱を引き起こすのだった。

さて、ワシントンによって作られた国家は、時がたつにつれて堅固で巨大なものとなり、新しい領土を獲得するにつれて、より偉大さを増してゆくように思われた。アメリカをより力強い国家とするためならば、彼らは戦争も厭わなかった。

その典型例は米墨戦争だろう。はじめテキサス州はメキシコの領土だったが、メキシコ政府が制定した奴隷禁止令が気に食わず、メキシコからの独立を宣言した。やがてアメリカがテキサス州を併合し、メキシコとの全面戦争へと発展したのである。

アメリカはメキシコに勝利し、テキサスならびにカリフォルニア、コロラド等の新領土を獲得した。まさに膨張の時代、アメリカがより大きく、より強く成長しつつあった時代である。

対外的な膨張とともに、内政的にも国家の形が整いつつあった。この時期の最も重要な政治家はアンドリュー・ジャクソンだろう。彼は猟官制を実行し、大統領の権力をより確実なものとした。また、民主主義を普通の人々にまで浸透させ、アメリカ的民主主義を確立した。国民の総意に基づいて選ばれた大統領には、巨大な権力の行使が許されるという、民主的独裁とも言える合衆国の政治制度が、このとき整えられたのである。

このように、国内外で合衆国は成長を続け、その力はゆるぎないように思われた。しかし、歴代の大統領が無視し続けてきた未解決問題が、ここで火を噴くこととなる。

テキサスをはじめ、南部諸州は奴隷制を続けていたが、奴隷制に反対する北部諸州との間に政治的な溝が生まれていた。1860年に反奴隷制を掲げるエイブラハム・リンカーンが大統領に就任すると、南部諸州はアメリカ連合国を結成し、合衆国への攻撃を開始した。

3

南北戦争の背景には、北部と南部の経済体制の違いがある。北部では商工業が発達する一方、南部経済の基盤は大規模農場経営であり、その維持のために黒人奴隷が不可欠だった。奴隷制を廃止されれば、南部の有力者たちは没落せざるをえず、これを北部の政治家による陰謀だと疑った。これに対して北部の有力者たちは、南部の奴隷主が合衆国を牛耳ろうとしているのではないか、という疑いにとらわれていた。

一方は奴隷制という悪を滅ぼすための正義に燃え、他方は北部の専制に立ち向かう義勇の士を演じた。この対立のさなか、あわれなインディアンは小さな居留地に押し込められ、アメリカ人の愛玩動物になりつつあった。ここでも波旬は力をふるい、奴隷制をめぐる権力争いによってアメリカ人の視界を隠しつつ、そのすきにアメリカ本来の主を生贄として捧げさせたのである。波旬の力の及ぶところ、そこは殺戮の巷と化す。

南北戦争はアメリカ分裂の危機であったが、無事に北部が勝利をおさめ、合衆国は統一を取り戻すこととなった。雨降って地固まるとは行かないものの、奴隷制廃止で全国がまとまり、さらなる躍進の時代を迎えた。

西部開拓によって人口は増加し、経済も急速に発展した。インディアンはもはや敵ではなく、アメリカ人の団結を強める予定調和にすぎなかった。西部開拓が終わると、アメリカはスペインとの戦争に踏み切り、フィリピン、キューバを獲得した。俗に言うアメリカ帝国主義の時代である。合衆国は、さらなる膨張のために海外領土を欲していた。

この頃のアメリカは、あくまで合理的な国家であった。自国の損となることは避けるが、国益のためなら戦争も辞さなかった。ヨーロッパの争いには関与しない一方、領土獲得のためならば進んで争いを起こす。独善的で合理的な、完成された国家だった。

しかし、アメリカの力が強まるにつれて、ヨーロッパの政治に関与することは避けられなくなっていた。第一次世界大戦が勃発したとき、アメリカは中立を保った。が、それは最初だけで、戦争が長期化するにつれて、いやおうなく戦争に巻き込まれることとなる。不承不承ではあったが、アメリカが参戦することで戦争は終わり、かえって国際的な存在感は増した。戦後処理においてもアメリカが主導権を握り、押しも押されぬ世界の一等国となったのである。

この頃がアメリカの絶頂期だった。経済的にも発展をとげ、国際的な声望は頂点に達した。だが、頂点まで昇りつめた龍は、そこから降下せざるをえない。アメリカの衰退は、すでにこのとき始まっていたのである。

アメリカの繁栄を支えていたものは、それまでにヨーロッパ諸国が作り上げた覇権であった。具体的にいえば、植民地である。ヨーロッパの少数の国々が世界中に植民地を作り、世界を分割していた。その状況を背景に、同じキリスト教徒の一員として、アメリカは力をふるうことができた。

彼らがアジア人を敵視したのは、それが自分たちの覇権を脅かすものだと理解していたからである。その恐怖は、やがて現実のものとなった。

4

波旬に操られたアメリカの魔手は、すでに太平洋の対岸に届いていた。彼らは東アジアにおいて影響力を拡大させる機会を狙っていた。

イギリスがアヘン戦争によって中国政府を屈服させたのが1840年、それから毎年、イギリス商人はアヘンの売買によって莫大な利益を上げていた。アメリカ人にはそれがたまらなくまぶしく見えた。彼らは中国を経済的な植民地とするために、東アジアへの政治的な介入を試みた。

その機会はなかなか訪れなかったが、やがて好機が巡ってきた。ニューヨークに端を発した世界恐慌の結果、先進諸国は軒並み不況に陥った。そこから抜け出す道を探って、各国は独自の対策を取り始めた。広大な植民地を持つ国々は、ブロック経済圏を作って保護貿易を行い、ドイツではナチスが経済の再建に乗り出した。

そして日本では、関東軍が満洲事変を起こし、未開発の新領土を手に入れたのである。満洲への資本の投下と移民の受け入れは、冷え込んだ日本経済を活性化させ、一時的に経済は回復した。しかしこれは、領土の不可侵を旨とするヴェルサイユ条約に反する行動であり、国際世論の反感を買うのは必至であった。

この事件をきっかけとして、平和を乱す悪の帝国日本と、平和を守ろうとする国際連盟という構図が出来上がり、連盟の発起人であるアメリカは、東アジアに干渉する口実を手に入れたのである。その後の日中戦争もまた、中国への影響を強めようとするアメリカを利するものであった。

ヨーロッパで大戦がはじまったあと、合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトは、イギリス首相ウィンストン・チャーチルと大西洋上で会談を行った。そこでは民族自決や領土の不可侵など、戦後の世界の枠組みを決める決定がなされ、結論は大西洋憲章として公表された。

実際には、民族自決を阻んでいたのは欧米諸国の植民地であり、それを保障したヴェルサイユ体制であった。彼らは表面的な美辞麗句に我を忘れ、自らを正義の実行者だと思い込んでいたのである。彼らが滅ぼそうとする不正義を作った者こそ、彼ら自身だというのに。ここでも波旬は力をふるい、物事の順序を混乱させてしまった。何が正義で何が悪か、両政府の首脳には全く判断がつかなかった。

ルーズベルトは着々と対日戦争の準備を進めていた。国民には日本との戦争はありえないと言いながら、中国への軍事援助を続け、日本の資産を凍結した。さらに石油の禁輸を断行し、日本を窮地に追い込んだ。しかし、日本政府はあくまでも戦争を避けようとし、アメリカとの和平の道を必死に模索した。

大統領はそれが気に入らなかった。なぜ、秩序を乱す悪人であるはずの日本が、アメリカに和を乞うのか。悪人ならば悪人らしく、暴力に訴えればよいではないか。それならば、こちらにも備えはあるというに。

彼は平和の守護者を気取りながら、自国民を死に追いやる外交文書を日本大使に手渡した。ハル・ノートである。アメリカは、日本軍に中国からの撤退を要求した。表面的には、それは平和を求めるものだった。しかし、その要求が戦争を意味するものであることに、大統領が気付かなかったはずはない。中国人の命と、アメリカ人の命と、どちらが大事だったのだろうか。

5

さて、真珠湾に集められたアメリカ軍の戦力は、
戦艦カリフォルニア、メリーランド、テネシー、アリゾナ、オクラホマ、ウエストバージニア、ペンシルベニア、ネバダ、以上8隻、
重巡洋艦ニューオーリンズ、サンフランシスコ、以上2隻、
軽巡洋艦デトロイト、ホノルル、セントルイス、ヘレナ、ローリー、フェニックス、以上6隻、
その他駆逐艦等多数。

一方、攻め手の日本側の戦力は、
航空母艦赤城、加賀、蒼龍、飛龍、瑞鶴、翔鶴、以上6隻、
戦艦比叡、霧島、以上2隻、
重巡洋艦利根、筑摩、以上2隻、
そして軽巡洋艦阿武隈と、駆逐艦及び潜水艦多数であった。

こうして見ると、アメリカ軍の戦力の充実ぶりがよく分かる。前線に配備する戦力としてはあまりに攻撃的であり、アメリカの東アジアへの野心を物語っていると言えよう。

いよいよ戦争の幕は切って落とされた。緒戦の決着は、意外なほどあっさりついた。

秘かにハワイ沖に接近していた南雲中将率いる連合艦隊機動部隊は、ハワイ時間1941年12月7日払暁を期して、米海軍真珠湾基地へ攻撃を開始した。

12月のハワイの日の出は午前7時頃である。午前6時、夜明け前の暗闇の中、真珠湾の北230海里まで接近した6隻の空母から、総数183機の第一次攻撃隊が飛び立った。北風が強く、船体は大きく揺れていたが、1機も事故を起こさなかった。第一次の出撃が完了すると、即座に第二次攻撃隊が飛行甲板に上げられ、午前7時10分、171機が空母から飛び立った。

アメリカ側は油断していた。陸軍のレーダーは北から迫る飛行機の大群をとらえていたが、その情報は司令部まで届かなかった。そのため、攻撃隊が真珠湾上空に到達するまで、アメリカ軍が迎撃態勢をとることはなかった。奇襲は完全に成功した。

真珠湾に居並ぶ戦艦は、何も知らずに波に揺られていた。屠殺場につながれた羊の群れのように、彼らは静かに日本軍の刃を受け入れた。

湾への攻撃を開始したのは雷撃隊であった。彼らは高度3000メートルでオアフ島に侵入し、それから徐々に高度を下げ、秘かに真珠湾へ侵入した。午前8時、高度10メートルまで降下した九七式艦攻は、戦艦ウエストバージニアの手前500メートルで魚雷を投下、目標に命中し水柱が上がった。ほぼ同時に寮機も攻撃を開始し、戦艦ネバダ、アリゾナ、カリフォルニアに複数の雷撃が命中した。

5分後に水平爆撃隊が湾に侵入すると、すでに各戦艦は迎撃態勢を取っており、熾烈な対空砲火を浴びせてきた。被弾する友軍も多いなか、攻撃隊は狙いを定めて爆弾を投下、アリゾナ、テネシー、メリーランドに命中した。アリゾナは火薬庫が誘爆し、火柱を上げて大爆発を起こした。

午前9時頃、第一次と入れかわるように第二次攻撃隊が突入したとき、アメリカ軍はすでに防御態勢を整えていた。地上からの猛烈な砲火と爆煙のなか、急降下爆撃隊は目標を定めて果敢に爆弾を投下したが、敵艦の確認もままならず、戦果のほどは定かではない。

二度の攻撃によって、米戦艦アリゾナ、オクラホマ、カリフォルニア、ウェストバージニアは撃沈、ネバダは大破、メリーランド、テネシー、ペンシルべニアは中破した。ほか軽巡、駆逐艦等の沈没、損傷があったが、日本軍のねらいは戦艦だったようである。

また、真珠湾を母港とする空母エンタープライズ、レキシントンは会戦の直前にハワイを出港し、それぞれウェーク島、ミッドウェー島に向かっていた。日本軍の主目的は敵空母の撃滅だったため、この2隻を撃ちもらしたことは痛恨事であった。

当時、アメリカ軍は17隻の戦艦を保有していた。そのうち9隻が太平洋艦隊に所属していたが、1隻は修理中で真珠湾にいなかった。残りの8隻は大西洋方面に展開していたため、太平洋地域に展開しうる戦艦は、すべて日本軍に撃破されたことになる。損傷を受けた戦艦のうち、6隻は修理され復旧したが、戦列に復帰するまでには半年から数年の時間を要した。太平洋艦隊は、真珠湾攻撃によってほぼ壊滅したと言ってよい。

もちろん、エンタープライズ、レキシントン等の航空母艦は無傷であったが、空母だけで戦争はできない。日本側の陣立てを見れば分かるように、主力の空母に護衛の駆逐艦や巡洋艦、さらに高火力の戦艦を加えて打撃部隊を編成するのが当時の常識だった。しかも、空母を主力とする用兵思想は真珠湾以降に確立されるものであり、真珠湾直後の状況では、まだ戦艦を主力とする考えが根強かった。これを航空主兵に転換するためには、まず軍人たちの意識を改革し、そして訓練を行う必要があった。訓練なくして軍隊は動かない。その準備が完了するまでのあいだ、アメリカ軍は沈黙せざるをえず、太平洋は空白地帯となったのである。

このことは、アメリカが劣勢に立たされただけでなく、アメリカの同盟国もまた危険にさらされたことを意味する。先に述べた大西洋会談の折、チャーチルとルーズベルトは秘密裏に対日戦を想定した軍事同盟を結んでいた。そのためイギリスは、東南アジア方面で日本との戦いが起きたとき、アメリカ軍の支援を当てにすることができた。だが真珠湾の失敗によって、アメリカ軍はイギリスを支援する能力を失ったのである。これによって、イギリス領は侵略の危機に陥った。

6

アメリカでは真珠湾攻撃の翌日、大統領フランクリン・ルーズベルトが国民に向けて演説を行った。簡単に言えば、アメリカは被害者で、日本と戦うことは正義だ、ということだった。アメリカ国民はこの演説に感極まり、戦争に向けて一致団結したという。

ルーズベルトはハル・ノートの内容について語らなかったし、アメリカ政府が日本に対して敵対的な行動をとってきたことも隠した。民族の独立を宣言しながらフィリピンを支配下に置いていたことも、中国人をアヘン漬けにしてきたイギリスを支援することも、アメリカ人の目には映らなかった。肝心なことは、彼らは被害者で、復讐は正義だということである。このときも、アメリカ人は無知のヴェールに覆われていた。

なかんずく、ルーズベルトの責任が一切追及されなかったことは不思議である。大統領はアメリカ軍の総司令官なのだから、真珠湾の失敗はルーズベルトの責任である。にもかかわらず、彼はなぜか免責され、代わりに彼の部下たちが責任を負わされることになった。

これはアメリカ民主主義の一つの特徴である。国民の総意によって選ばれた大統領は、国民と一体化している。ゆえに、アメリカ国民が被害者であるならば、大統領も被害者でなければならない。この国民との同化をどれだけ行えるかによって、大統領の評価が決まると言っても過言ではない。国民は自分の姿を大統領に投影し、大統領に同化する。それによって大統領の権威が保証されるのである。

ルーズベルトはアメリカ的な民主主義を最もよく理解し、利用した人物である。アメリカ人が被害者であることを強く望む場面で、自分も被害者のふりをして国民を味方につける。そして免責特権を獲得し、大統領の座に座り続ける。アメリカ的な独裁者の典型といってよいだろう。

独裁者、というのは比喩ではなく、ルーズベルトは事実独裁者だった。というのも、彼は死ぬまで大統領であり続けたからである。ふつう大統領制をとっている国では、大統領の再選に制限が設けられている。なぜならば、大統領には非常に強い権限が与えられているため、もしも大統領がその権力を手放さなくなれば、それは容易に独裁体制へと変化してしまうからである。その危険を防ぐために、同じ人物が大統領を続けることは禁止されねばならない。

いまではアメリカにも、大統領は2期までという決まりがあるようだが、当時はそれがなかった。そのため、国民が望めば、同じ人物が何度でも当選できたのである。事実、ルーズベルトは連続4期まで大統領を務め続け、その任期中に死んだ。ゆえに終身大統領だったと言えるし、それは実質的に彼が独裁者だったことを意味している。太平洋戦争の性格を考える上で、これは非常に重要な問題である。

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