日中戦争に関する予備的考察

日中戦争の原因

いわゆる南京虐殺等、戦時中の日本軍による残虐行為を否定しようとする歴史修正主義者と、その事実をなんとかして立証しようとする左派の人々がいる。我々は彼らの争いに巻き込まれてはならない。なぜならば、それら歴史的事件の道義的責任を論じることによって、我々は歴史に対する理解から遠ざけられてしまうからである。

日本軍が残虐行為を行ったかどうかはどうでもよい。おそらく行ったであろうし、その責任は行為者本人にあるだろう。我々が本当に知るべきは、彼らはなぜそのような事態に立ち至ったのか、という因果関係である。

そもそも、日中戦争が侵略戦争だというのは誤りである。発端となった盧溝橋事件は偶発的な事故であり、日本軍による陰謀だという証拠はない。その事件をきっかけとして、日中両軍の武力衝突がはじまり、全面戦争へと発展した。

では、そもそもなぜその場に日本軍がいたのか。日本軍が中国に駐留していたのは、日本人居留民の安全を守るためである。では、なぜ居留民の安全を日本軍が守らねばならなかったのか。それは、当時の中国には治安の保障がなかったからである。現在の中国では共産党による統治が行き届いているので、治安は保障されていると言える。しかし当時の中国に統一政権はなく、日本に対して治安を保障できる政府は存在しなかった。したがって、日本政府は日本国民の安全を守るために、中国に軍を駐留させざるをえなかったのだ。だが、それは当然中国人の国民感情を刺激し、日本に対する反感を呼び起こした。その緊張した雰囲気の中で発生した両軍の小競り合いが、全面衝突に発展したのである。

以上の状況をふまえて、いったい誰に責任があると言えるのか。軍を駐留させた日本政府だろうか。中国で仕事をしていた民間の日本人だろうか。それとも日本軍そのものだろうか。あるいは統一政権を作ることができなかった中国人だろうか。

責任があるといえば、上記の人間すべてに責任があるのだが、そんなことを考えても仕方がない。起きたことは起きたのであり、我々はその現象が起きた過程を考察し、因果関係を知ることができればそれでよい。こうした問題に関して誰かの責任を問うたり、道義的な批判を始めたりすることには何の益もない。

日本は戦争などするべきではなかった、と言う人は、いま述べた歴史のどの部分に問題があったと言いたいのだろうか。彼は、日本は江戸時代と同じように鎖国を続け、中国とは何の関わりも持つべきではなかった、と言いたいのだろうか。

そうではなく、日本は中国と交流を持つべきだったと言うならば、彼は日本人が中国で働くことも認めねばならず、それら日本人の安全を日本政府が保障することも認めねばならず、そのために日本政府が中国に軍を駐留させることも認めねばならず、それによって中国人の反日感情をあおってしまうことも認めねばならなくなる。その結果起きてしまった武力衝突に対して、日本軍が何の対応もしなかったならば、日本軍の兵士はただ殺されるだけになってしまう。兵隊が死をまぬがれるためには中国軍と戦わねばならず、日本政府も兵隊の命を守るために増援を送らねばならず、こうして戦火が拡大していったのである。

いったい誰が悪かったのか。誰に責任があるのか。架空の中国侵略論者を想定して、彼に全ての責任をなすりつけるのは簡単である。だが、それは思考停止に他ならない。

これら因果関係の根本に位置するのは、なぜ当時の中国には統一政府が存在せず、治安の乱れた状態だったのか、という問いである。

だが、これは順番が違う。日本人は、中国の治安が乱れ、国家が滅びるさまを間近に見ていたのである。1840年にアヘン戦争が、そして1856年にアロー戦争が起き、英仏によって中国が侵略され、一つの文明が崩壊してゆくところを我々は目の当たりにしたのだ。

その恐怖に突き動かされて日本人は明治維新を起こし、ヨーロッパ諸国に負けない強国を目指すようになった。我々が明治政府を作って、中国と関わりを持つようになった原因こそ、中国社会の崩壊なのである。そして、中国崩壊の原因は明らかにアヘン戦争であり、英仏による侵略である。

いったい誰が悪かったのか。誰が日中戦争の根本的な原因を作ったのか。答えはイギリス人である。では、なぜ彼らはあのように非道な振る舞いができたのか。それは、彼らが無知だったからである。彼らは文明を知らず、人としての道を知らなかった。だからアヘン貿易を恥とも思わず、他国の侵略を悪とも思わなかったのである。

では、なぜ彼らは道徳を知らなかったのか。なぜ非道な振る舞いができたのか。それが人間の本性なのだろうか。

それは半分正解で、半分間違いである。正しくは、なぜ日本には道徳があったのか、中国には道徳があったのか、と問うべきである。人間は生まれながらに道徳を弁えているわけではなく、それを人から与えられる必要がある。そうした教師に恵まれていたのが我々アジア人である。教師とは仏陀であり孔子である。彼らは道徳を説いた。

ここで、ヨーロッパにはイエスがいるではないか、と言う人がいるかもしれない。しかし、イエスは道徳を説かなかった。彼は不道徳を説いたのである。罪びとは救われるべきである、と彼は言った。いったいいつ仏陀がそんなことを言ったのか。孔子がそんなことを言ったのか。仏陀は因果応報と言い、孔子は仁と言った。罪人が救われるなどとは一言も言っていない。それは道徳に反する言葉である。

そのような反道徳的宗教におかされ、正しい知識を得る機会がなかったために、ヨーロッパ人は非道な振る舞いをし、多くの悪徳を世界にまき散らしてしまったのである。

このように、歴史的事象の因果関係をさかのぼることで、我々は我々自身が属する社会の根本的な病理にまで迫ることができる。日中戦争の原因は盧溝橋事件であり、盧溝橋事件の原因は日本軍の中国駐留であり、日本軍の中国駐留の原因は日中の人的交流であり、日中の人的交流の原因は明治維新であり、明治維新の原因は中国の崩壊であり、中国の崩壊の原因はアヘン戦争であり、アヘン戦争の原因はイギリス人の無知であり、イギリス人の無知の原因はキリスト教であった。

悪人正機にまつわる誤解

世間では、よく親鸞の悪人正機がキリスト教の救済思想と比較されるが、言語道断である。彼は、悪人も念仏を唱えれば浄土に行けると言ったのであり、悪人も救われるべきだと言ったのではない。念仏とは仏に帰依することであり、仏に帰依するということは仏の教えに帰依するということである。仏の教えとは因果応報であり諸悪莫作であるから、罪が許されるなどということはない。

そもそも悟りとは善悪を超越したものであり、かのアングリマーラでさえ悟りを開いたのだから、悪人だからといって悟りを開けないわけではない。ただ、善悪とは行為の名前であり、人間の名前ではないというところに悟りの機縁がある。アングリマーラは悟りを開くことで己の悪業から逃れたわけではなく、彼はその報いを必ず受けたであろう。善業は楽果をもたらし悪業は苦果をもたらす。己の悪業を悪業と観じ、苦果を苦果と観じるところに悟りがある。過去の悪を恐れず、いまから永遠に善の中に生きるという決意が悟りである。

悪人は存在せず、善人も存在しない。なぜなら善悪は行為の性質であって、人間の性質ではないからだ。悪を行う人間が悪人であり、善を行う人間が善人である。ならば、今日善人である人が明日悪人であることもあり、今日悪人である人が明日善人であることもある。過去の一切の罪は許されないが、今日から罪を作らずに生きてゆくことはできる。それが悟りであり空である。善人は空であり悪人は空である。そんなものははじめから存在しないという認識が悟りである。それは決して善悪を否定するものではなく、むしろ善悪のけじめを明らかにする思想である。

自分はどうせ悪人だから、自分はどうせ○○だから、の○○を否定するのが空である。それを肯定するのがイエスである。人間はみな悪人だから悪いことをしても仕方がない、という居直りと、でも神様が救ってくれるよ、という都合のよい夢のセットがキリスト教である。それは救済でもなんでもなく、ただの怠惰である。

私がキリスト教を外道と断じるのは、このような理由からである。現代日本人の多くがこの問題に気付かないのは、いまが末法の世であるからだろうか。人々の知恵の眼は獣のように曇っている。

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