安倍晋三銃撃事件について

2022年7月、元首相の安倍晋三氏が街頭演説中に銃撃され、死亡する事件が起きた。犯人の供述によれば、動機は政治的なものではなく、旧統一教会への恨みを晴らすためだった。はじめは教団の指導者を標的にするつもりだったが、暗殺の困難を悟り、教団の広告塔になっていた安倍に狙いを変えたという。

この事件は、他の自民党議員の旧統一教会への関与や、安倍の国葬問題など様々な広がりを見せている。ここで問題を整理してみたい。

ある人物の死に方は、その人の生前の行いに強く影響される。お酒を飲みすぎた人は肝硬変で死に、ヤクザの親分は他のヤクザに殺される。それぞれの死には必ず原因がある。したがって、安倍があのような死に方をした理由を知るためには、彼の生前の行いを振り返らねばならない。

一言でいえば、彼は悪人である。政治家は国民の模範となるべき存在であるのに、政府の首班たる彼は国会で平然と嘘をつき、それを指摘されてもヘラヘラ笑っているだけであった。彼は日本国民に対して、人は嘘をついてもよい、という間違った手本を示してしまったのである。

嘘をつくことは悪であり、人間が絶対にしてはいけないことである。したがって、国会で嘘をついた安倍は悪人である。今回の事件は、煎じ詰めれば悪人が悪人に殺されただけであり、じつにつまらない話である。この点で、私は彼の死に全く同情できない。

たしかに彼は生前からぼんやりしたことしか言わなかったが、死に方までぼんやりしているのだから笑えない。政治的理由で殺されるならまだしも、宗教団体への恨みが原因で殺されるとはどういうことか。

実際、彼は政治家として必要な資質を持ち合わせておらず、そのため、彼が政府を主宰する間に民心が荒廃したことは事実であり、結果として暗殺の憂き目にあったという説明は可能である。国を治めるために最も必要なことは正義を明らかにすることであり、国民の道義心を育むことである。

世の中には、法によって国を治めることができると考える者もいるが、それは間違っている。社会正義を実現するためには倫理によるしかない。私はすでに嘘をつくことが悪であることを明らかにしたが、この悪を法律で裁くことはできない。仮に嘘を禁止する法律を作ったとしても、ある人が嘘をついたことを客観的に証明することは困難であるため、この法はすぐに形骸化してしまうだろう。

だが、それは本人には分かっている。他人には分からなくとも、嘘をついた本人には「自分は嘘をついた」という自覚がある。したがって、社会から嘘をなくすためには、個人の意志でそれを抑制するしかない。それが倫理の力である。

政治家が平気で嘘をつくような社会に、正義が存在する余地はない。ゆえに、安倍晋三は社会正義を破壊した極悪人であると言える。そして彼は、国を治めるためには倫理が必要であるという、政治の要点を理解していなかったのだから、政治家としても無能であった。そう考えれば、彼の死には十分な理由がつくように思える。

しかし、違う。彼が殺されたのは、政治家としての資質が不足していたためではなく、彼が宗教団体に関与していたためであった。これはどういうことか。

ある意味では、自民党自体が一種のカルトである。むかし小泉純一郎が総裁だったとき、彼は「自民党をぶっ壊す」と連呼していた。不思議なことに、彼が自民党を壊すと言えば言うほど、自民党の支持率は上昇した。

本当に自民党を壊したいのであれば、有権者は自民党以外の政党に投票すべきであろう。だが実際には、自民党を壊したいと思う人ほど、自民党を支持していたようである。ここには論理がない。自民党支持者の行動原理は論理を超越しており、したがってこれは一種のカルトであると言える。自民党自体がカルトであるから、カルト同士統一教会と仲が良かったと考えることもできる。

だが、カルトの何がいけないのか。論理を超越した信仰がカルトであるとするなら、あらゆる宗教はカルトではないのか。たしかにこの考えで行けば、少なくともキリスト教はカルトである。それは論理を超越した信仰であるから。ゆえに、我々はキリスト教の信仰を禁止しなければならない。

ここに本当の問題がある。カルト宗教を否定するならば、我々はキリスト教をも否定せざるをえない。なぜなら、不条理な教義と救済思想の組み合わせをカルトと定義するならば、キリスト教は完全にカルトの特徴を備えているからである。

日本国憲法には信教の自由が明記されているが、これはもともとヨーロッパの宗教戦争に端を発する思想である。16世紀にルター、カルヴァンなどの宗教改革者が現れ、プロテスタントという新しいキリスト教の宗派ができると、その新宗教を否定する旧教徒との間に激しい争いが生じた。この争いは世俗権力を巻き込み、血で血を洗う凄惨な武力闘争に発展したため、やがて平和のために、宗教と権力の結びつきを禁止し、それぞれの権力者は特定の宗派をひいきしないという、政教分離、信教の自由の原則が確立されるに至った。

これも本をただせば、キリスト教というカルト宗教を信仰していたために、残酷な争いが繰り広げられたわけであるから、ただキリスト教の信仰を禁止すればよかったのである。なにも信教の自由などという大げさな話は必要ない。カルトを信じるな、迷信を信じるなと言えば十分なのだ。ヨーロッパ人にはそれが分からなかったので、信教の自由を発明し、それを日本人もありがたがっているわけだが、こんな馬鹿馬鹿しい話にいつまでも付き合ってやる必要はない。すべてのカルトの根源はキリスト教であるのだから、我々はまずこれを禁止しなければならない。

モーセの十戒によれば、人は法廷の外でなら嘘をついてもよい。安倍はこれを実践しただけである。

安倍晋三は旧統一教会の信者ではなかったようだが、その信仰に共感していたことは確かである。ここで問われているのは、信教の自由を認めるか否かという、この国の根幹に関わる問題である。そしていま、この問題を通じて保守とリベラルのねじれが顕在化しつつある。

多くの日本人は安倍晋三を保守と見なしているが、彼はリベラルの特徴を多く備えており、信教の自由もその一つである。むしろ、世間で左派と言われている人々のほうが信教の自由に否定的であることが、今回の件で明らかになった。結局のところ、日本人は本当の意味でリベラリズムを理解していない。それがどれだけ破壊的で非人間的なものであるか、分かっていないのだ。

最後に私自身の立場を明らかにすれば、私は仏教原理主義者である。仏の教えこそ真実であり、ほかはすべて迷信にすぎない。キリスト教もリベラリズムも外道であり、徹底的にしゃくされるべきものである。

幸いにも、日本国の憲法には篤く三宝を敬えと記されている。これこそ正しい信仰であり、正しい政治である。

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