タイムマシン

1

時間とは何か。

タイムマシンは可能か。

過去に戻ることはできるのか。

過去を変えることはできるのか。


タイムマシンが周知されるようになったのは、H・G・ウェルズのSF小説がきっかけだろう。主人公がマシンに乗り込みダイヤルをひねると、過去や未来を自在に行き来できる。

時間旅行が不可能であることを指摘することはたやすい。しかし、そのアイディアが多くの人を惹きつけていることも事実である。それは、タイムマシンの存在が、時間というものの不思議さに気付かせてくれるからだろう。

2

私の考えでは、時間は存在しない。もちろん、これはよくある答えである。時間は言葉の上でしか存在しない。なぜならば、それを見ることも触ることもできないからである。では、時間とは何か。我々が時間という言葉を使うのは、どのようなときか。

我々はものの変化を説明するときに、時間という言葉を使う。たとえば、お湯を沸かしたときに、コップに入れておくよりも、魔法瓶に入れておいたほうが、冷めるまでに時間がかかる。ジャガイモを丸ごとゆでるよりも、細かく切っておいたほうが、早く熱が通る。日の出から日の入りまでの時間は、季節によって変わる。このように、何かが変わるときに、時間という言葉が現れる。変化の速さを測るために、時間という概念が活用される。

様々なものの変化を比較してゆくときには、どこかに変化の基準があったほうが楽である。基準となる時計を作ってしまえば、その時計の動きと比較することで、変化の速さを順序付けることができる。

そうすると、ものの変化を観察するときに、それを常に時計の動きと比較する癖がついてしまう。そうした習慣が時間の抽象化を進め、どんなものの変化とも直接の関係を持たない、独立した時間という観念が生じる。そして、ものの変化を説明するために必要とされた時間という観念が、今度は逆に、ものの変化を可能とするための条件として理解されるようになる。ここには、原因と結果の転倒がある。

3

これはヨーロッパ人に特有の現象であって、彼らには、抽象的な概念を実体視するという癖がある。

たとえば、能力という言葉がある。ある人に跳び箱をとぶ能力があるということは、その人が過去に跳び箱をとんだことがある、ということを意味しているに過ぎない。つまり、跳び箱をとんだ、という事実が先にあり、その後で、彼には跳び箱をとぶ能力がある、と評価されるわけである。事実を原因として、評価という結果が生じる。

ところが、一部の人々はこの関係を逆転させて、彼には跳び箱をとぶ能力があったから、跳び箱をとべたのだ、と考える。つまり、能力を原因として、跳び箱をとぶという現象が実現された、と考えるのである。

言葉は、事実よりも後に生じるものである。ある事実を観察した後で、我々はそれを言葉として表現する。事実が原因で、言葉が結果である。これが現実の因果関係である。しかし言葉の魔力にとりつかれた人々は、言葉を原因として、現象が生じたのだ、と考えてしまう。これは、言葉に対する呪術的な理解と言ってもよい。

ある事実を言葉として表現した後に、その言葉に対応する実体が仮定される。このような推論は、事実をそのままに記述する場合には問題ない。だが、それを簡略化する表現の場合には、問題が生じる。「彼は跳び箱をとんだ」という文章には、それぞれの単語に対応する事実がある。しかし「彼には跳び箱をとぶ能力がある」という文章には、どんな事実とも対応しない「能力」という単語が現れる。この単語に対応する実体を仮定することによって、様々な不合理が生じることになる。それが、哲学と言われるものの正体である。

したがって、時間に関する哲学的な議論も、この種の疑似的な問題の一種であると結論できる。

般若心経には「遠離一切顛倒夢想」というフレーズが現れる。その「顛倒」は、ここで説明したような、因果律と言葉に関する転倒のことである。

タイトルとURLをコピーしました