日本の過去と未来

1 歴史問題の整理

私はこのHPの中で、日中戦争と太平洋戦争について、何度も語り直している。この一連の戦争をどのように語れば、その本質に近づくことができるのか、試行錯誤を続けている。ここで再び問題を整理してみたい。

1.1 植民地

論点の一つ目は、ヨーロッパの植民地政策である。これは明確な侵略行為であり、人類の自由を脅かす犯罪行為である。この点をまず明確にしなければならない。

それに対して、日本も植民地を作った、と言われる。韓国と台湾である。しかしこれは、ヨーロッパの侵略に対抗するために、アジア人同士で同盟を結んだだけ、と解釈することもできる。むろん単なる植民地という解釈も不可能ではないが、それ以外にも解釈の余地はある。

1.2 日中戦争

論点の二つ目は中国である。中国をどう扱うかということが、一番難しい。東南アジア各地は、それぞれ明確に宗主国が存在していた。ベトナムはフランス領で、マレーシアとミャンマーはイギリス領である。一方で、中国には宗主国が存在しなかった。ゆえに、明確に植民地であったとは言えない。しかし列強各国は中国各地に租借地を作り、自国の軍隊を常駐させていた。つまり彼らは、アジアにおける軍事拠点として、中国を利用することができたのである。

これは日本を刺激せずにはおかない。目と鼻の先である中国に各国の軍隊が駐留しているということは、日本にとっては紛れもない軍事的な脅威である。現在の中国にとって、沖縄の米軍が脅威であるのと同じように、日本にとっては、中国に駐留する各国軍は厄介な存在だったはずである。

ところが日中戦争によって、その状況は変わった。日本が中国を占領することで、外国の軍隊は中国から追い出されてしまったのである。これによって列強は海外拠点を日本に奪われることになり、日本に対する警戒心を強めた。同時に、アジアにおける覇権を日本に奪われるのではないか、と疑心暗鬼にとらわれるようになった。この覇権の交代劇ということが、太平洋戦争の本質である。

1.3 覇権の交代

では現在、世界の覇権はどこにあるのか。それはアメリカにあるのだろうか。

一見そう思えるが、よく見ると、アメリカはやらなくてもよいことをやらされているようにも見える。彼らはどうして世界の警察でなければならないのか。アメリカが世界の警察であるということが、彼らが覇権を握っているということなのだろうか。むしろ本当の覇者とは、警察を使役する側に立っている者を言うのではないか。では、アメリカという警察を使役しているのは誰なのか。

明確に断定することはできないが、それは日本であろう。日本は自国をアメリカに守らせ、しかも、アメリカが実現した世界秩序から最も多くの恩恵を受けてきたのである。戦後の国際秩序は、日本の発展を実現するために用意されたのだと言ってもよい。それぐらい出来すぎている。覇権は確かに交代したが、日本はそれを悟らせなかった。彼らは、自分たちが覇者であることを隠し続けている。

問題は、当の日本人自身が、そのことに気づかなくなっていることである。戦後世界のかじ取りを担ってきたのは日本人である。ゆえに、これからの世界をどう導くかということも、我々が考えなければならない。

2 経済成長と貧困

2.1 社会の豊かさ

ここからは、つらつら思うことを記してみたい。

まず、日本の経済成長が止まっていることについて。経済至上主義の人々にとっては、これは日本の亡国を意味するようで、様々に騒ぎ立てている。貨幣の取引量が相対的に減った、ゆえに日本は貧しくなった、という理屈である。

これを解決するために、政府は財政出動を増やし、インフレを起こすべきだ、と経済学者は言う。そうすることで市場規模が拡大し、国民が豊かになるのだという。その豊かさとは、より多くの貨幣を手に入れることができる、というだけはないか。

貨幣を手に入れることを至上の喜びと感じる人にとっては、それは歓迎すべき事態であろう。しかし社会の豊かさとは、本当にその程度のものなのだろうか。むしろそれを豊かさだと考えることで、我々の社会はどんどん貧しくなっているのではないか。

2.2 労働価値説の根深さ

私には分からないが、どうもここにはからくりがあるように思われる。経済規模の拡大は、実際には何かを犠牲にすることでなされているのではないか。

いまの経済学者は労働価値説を信じていないというが、では、生産性の向上とは何を意味しているのか。それは、一人の労働者が一日の労働によって生産できる量の商品を、より少ない労働時間で生産できるようになることを意味しているのではないか。そうすると、生産性の向上によって富の量が増加するという主張は、労働価値説以外の何を意味しているのだろうか。

しかし、労働が価値を生産するというのは嘘である。なぜならば、実際には自然が価値を創造しているからである。たとえば塩鮭には食品としての価値があるが、その価値を生み出したのは人間の労働ではなく、自然のはたらきである。もちろん人間の労働も必要だが、それ以上に自然の寄与が大きい。

経済学はこのうち、人間の労働のみを商品価値の構成材料として取り出し、自然の寄与を完全に捨ててしまう。これがマルクス以来の経済学の伝統であり、重商主義が切り捨てたものである。ここから、地球環境を無視した現在の経済学が出来上がってしまった。彼らは自然環境が我々にもたらす富を無視したがゆえに、闇雲な経済規模の拡大を肯定し、気候変動という大問題を引き起こした。

鮭を作ったのは、人間ではなく自然である。その自然が創造する富を計算に入れることができれば、環境リスクを織り込んだ経済学を作ることができるだろう。

おそらく日本人は、無意識のうちに近代経済学に抵抗している。彼らの本能に刷り込まれた自然との共生が、これ以上の経済成長を抑止していると想像できる。

簡単に言えば、衣食住が満たされていれば人間は幸せである。毎年うまい鮭が食えれば、それ以上に望むものはない。その鮭を食えなくしているのが経済成長であるならば、そんなものに何の価値があるのか。経済成長こそは、我々から生活の豊かさを奪う元凶である。

2.3 値段と価値

商品の値段は、商品の価値を示すものではない。ゆえに、商品の総取引額の増加は、価値の総量の増大を意味するわけではない。商品の価値を富とみなすならば、社会に存在する富の総量は、商品の取引額とは関係がない。経済学者の誤謬は、商品の総取引額と社会の富とを同一視していることにある。これらが一致するのは、労働価値説を正しいとした場合だけであることに、彼らは気付いていない。

基本的に、商品の値段は労働時間によって決まる。そこには自然のもたらす富が含まれていないので、貨幣交換量の総体は、必ず富の総量よりも小さくなる。自然がもたらす富を含めた富の総量を計算する方法は、まだ存在しない。それはGDPとは必ずしも一致しないと考えられる。

2.4 貨幣は富ではない

我々が奪われているものが何なのか、ようやく見えてきたような気がする。より多くの貨幣を手に入れることを望む人々によって、生活の豊かさが壊されてきたのである。その豊かさとは、自然の恵みを楽しむことである。貨幣が反映するのは人間労働だけなので、自然がもたらす価値を反映することができない。ゆえに、貨幣のみを価値とみなす人々にとっては、自然の価値は存在しないのと同じである。

経済格差に焦点を当てることは、本当の問題から目をそらすことにつながる。富の不均衡、つまり貨幣保有量の相違を問題化することは、逆説的に貨幣の価値を強調することになってしまう。それは結局、貧困を減らすために経済成長を続けるべきだ、という主張を導くことになる。彼らによれば、貧困とは貨幣の保有量が少ないことであり、これらの人々により多くの貨幣を分配するために、インフレーションが必要とされる。

私には、彼らが何を言っているのか分からない。富とは食料である。貧困とは食うものがないことである。ゆえに、貨幣の総量を増やすことよりも、食料を確保することの方が、貧困の解決には有効である。

貨幣は富ではない。富とは米である。

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