世界政府の政治体制

昨今の社会問題はグローバル化している。地球温暖化や経済格差の問題は、世界全体に広がっており、地域政府によっては解決できなくなっている。

ゆえに、単なる地域政府を超えた世界政府が必要とされる。グローバル化した社会問題に対応できるように、政治もグローバル化しなければならない。世界全体を単一の政府が統治するようになってはじめて、これらの問題は解決されるだろう。では、それをどのように実現すればよいだろうか。

世界政府をつくるということは、世界平和を実現するということである。そのためにはまず、我々にとって身近な地域から平和を実現してゆく必要がある。ゆえに、東アジアに平和をもたらすことが、さしあたって我々の課題となる。

設立まで

繰り返し述べていることだが、改めて整理しておこう。

東アジアには、昔から国際的な政治秩序が存在した。中国皇帝を中心とする朝貢体制である。これを現代に復活させることができれば、それで十分だと言える。しかしながら、現在の中国に皇帝はいない。中国最後の皇帝は大清皇帝溥儀であり、辛亥革命の結果として、彼が中華民国に権力を移譲したのが1912年のことである。それ以来、中国大陸には皇帝は存在しない。

だが目を外に向けてみると、世界にはまだ皇帝がいる。アジアにはお一人だけ、皇帝と呼ばれるお方がいらっしゃるのである。天皇陛下である。ゆえに我々は、天皇陛下を中心とした朝貢体制を作ることを考えればよい。

大清皇帝溥儀は中華民国に権力を移譲したが、その権威はまだ中華民国の中に存在している。もちろん中国大陸はすでに共産党が実効支配している。だが彼らは、先代の統治者である中華民国をいまだ滅ぼしてもいないし、権力の移譲を受けたわけでもない。革命も禅譲もいまだ起きていないのである。ゆえに、中国皇帝の位はいまも中華民国総統が受け継いでいる、と考えることができる。

したがって我々は、中華民国政府を促して、彼らが保持している中国皇帝としての権威を、天皇陛下に譲り渡すように仕向ければよい。つまり、中華民国総統が天皇に禅譲を行うのである。これによって天皇は中国皇帝を兼ねるようになり、ここに日本と中国の連合国家が成立する。これが新時代の東亜連盟である。

このようにして、天皇陛下を中心とした政治秩序が東アジアを覆い尽くすようになるだろう。そして我々は、その秩序を他の地域に及ぼしてゆけばよい。天皇陛下の徳が世界中に行き渡ったときに、世界平和が実現されるだろう。これが世界政府創設の青写真である。

政治体制

では、世界政府の政治体制はどのようなものであるべきだろうか。

まず、それは民主制であってはならない。というのも、民主政治は、市民の利権が政治に反映されやすいという特徴があるので、公平性を期待される世界政府にはふさわしくない。もしも世界政府が民主的に運営されるようになれば、多くの人口を抱える中国やインドの意見が通りやすくなるだろう。それは不公平である。ゆえに、民主制はふさわしくない。

世界政府は、天皇による独裁制でなければならない。といっても、天皇がすべての判断を下すわけではなく、実際の業務は官僚組織が行う。その行政府は、世界中から試験によって選抜された、優秀な人間によって組織されるべきである。つまり科挙制度によって官吏を登用する。その官僚組織が天皇独裁を支え、世界政府の実質をなす。したがって、この試験制度の在り方が、政治制度全体の価値を決めることになる。

本来ならば、むかしの科挙のように漢文によって試験を行うべきであろう。しかしそれは現実には難しいので、複数の言語によって試験を行うことになるだろう。それはどのような試験であるべきか。

そこにははっきりとした政治理念がなければならない。私がそこにあるべきだと考えるのは、論語であり孟子である。だがこれを学ばせるためには、やはり漢字によるしかない。もしかすると世界中の言語に、日本語のような書き下しの文化を作るべきなのかもしれない。

漢文の書き下しという文化は日本独特のもので、これによって漢文の学習が容易になっている。これと同じものを世界中の各言語で作ることができれば、漢文の学習がすすむのではないだろうか。

仏陀と孔子

私の立場からすると、論語ではなく仏典を学ぶように勧めるべきかもしれない。しかし仏教は政治思想ではない。我々が仏教から学べることは、事に当たるときの心構えであって、言語化された思想ではない。それはたしかに政治にとって有用なものではあるが、言葉によって伝えることには向いていない。ゆえに、学問として学ばせることは難しいと思う。

仏教は政治よりもむしろ、武に関わるものである。文官よりも武官にふさわしいと言える。仏の教えはよく車輪にたとえられる。初転法輪という言葉を知っている人もいるだろう。我々は車輪というと車のタイヤを思い浮かべるが、古代インドにおいてそれは武器の象徴だった。

それが戦車の車輪を意味しているのか、それとも金属の円盤を投げつけるなどして使ったものか、よく分かっていないのだが、日本における弓や刀と同じように、車輪は代表的な武器として認識されていたようである。仏の教えは無知を取り除くものであるから、愚かさや悪を砕く強力無比な武器として、車輪にたとえられることがある。

また、仏弟子を仏法を守る将軍にたとえる表現も、仏典にはよく出てくる。仏教と武人の距離は非常に近いのである。それもそのはずで、そもそもお釈迦様自身が、武士階級であるクシャトリアの出身だった。そのためおそらく出家前は、武芸の稽古もしていただろうし、武人としての教育を受けていたと思われる。

そう考えないと、お経に現れるお釈迦様のきびしさや、ぴんと張りつめたような緊張感、隙のなさ、曲がったことに対する容赦のなさといったものは、説明できない気がするのである。一言でいうと、おそろしい人である。仏教は文よりも武に近いと思う。もちろんこれは順番が逆で、武士たちが仏陀の真似をしていただけなのだが。

世界政府においては、文官だけでなく、武官も尊重されねばならない。統帥権の独立は行き過ぎかもしれないが、シビリアンコントロールを行うべきでないことも明らかである。戦争に関する判断は軍人に任せるしかない。戦争の素人が軍事的な判断を下すことの危険性は、過小評価されるべきではない。


世界政府の理念は儒仏道の三つで示される。儒教と仏教と、もう一つは土着の信仰である。道とは、儒と仏を受容しやすいように、その土地の文化風土に合わせて語りなおしてゆくことである。日本では神道と仏教が融合したように、その思想を受け入れやすい形に変容させてゆく必要がある。

また、儒は文であり仏は武であり、文武両道が眼目となる。座禅も大いに奨励されるべきである。

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