落合淳思『漢字の成り立ち』を読んで

合理性の罠

表題の本の中で、白川静の批判が展開されており、興味を惹かれて読んでいる。まだ途中だが、気になったことを書く。第五章が白川批判に当てられているが、「問題③・古代文明の合理性」の中で、次の甲骨文が取り上げられている。

眉人三千呼望<工口>方

(<工口>は口の上に工という文字。部族の名前らしい)。白川は文中の「眉人」を呪術師と解釈し、三千人の呪術師に敵を呪わせる、という意味にとった。一方、落合氏は、眉は軍隊を招集する意の動詞であるとし、三千人の兵士を招集する、と読む。白川説は呪術的な解釈に偏っているという批判である。

この部分は落合氏が正しいと思うが、彼はここから論を進めて、古代文明の合理性を説き始める。ここがちょっと引っかかる。彼は、殷王朝が祭祀や呪術儀礼によって支えられていたことを認めつつも、そこには一定の合理性があったと主張する。たとえば、人々の信仰心を利用することで王権を強めることができたとか、大量の家畜を犠牲に奉げることで経済力を誇示し、王の権威を強めていた、という説明がなされている。

確かにそういう効果はあったのかもしれないが、それが合理的思考に基づいてなされたかどうかは分からない。我々の目から見て、それらの祭祀に合理性が認められるということと、当時の人々がそこに合理性を認めていたかどうかは別の問題である。我々にとってそれが合理的に見えるということは、当時の人々がそれを行った理由にはならない。というのも、古代人がなぜその行動をとったのかということは、彼らがその行動をどのように認識していたのか、ということから説明されねばならず、我々がそれをどう認識するか、ということから説明することはできないからである。古代人は古代人の認識に基づいて行動したのであり、我々の認識に基づいて彼らが行動したわけではない。

なぜ彼がそれをしたのかということは、彼の意志から説明されねばならず、彼がその行為に合理性を見出していたかどうか、そして合理性を尊重していたかどうかは、我々には知りえないことである。こうした合理性による説明は、何かを説明したつもりになっているだけで、実際には何の説明にもなっていないことが多い。注意するべきである。

よみがえるフレイザー

ただ、彼は同時に、殷王が合理的思考に基づいて祭祀を利用した根拠を示してもいる。それは、一部の甲骨には細工が施されており、祭祀の実行者が、自分の望む結果が出るように占いを操作していた可能性がある、ということである。この事実をもって、彼は白川説を批判しているのだが、実のところ、これは批判になっていない。

というのも、白川の学説はフレイザーの強い影響下にあると考えられるからである。落合氏は、殷王朝が呪術儀礼を頻繁に行っていたことから、白川は漢字の発生を呪術と結びつけて考えたのだ、と述べているが、そうではない。おそらく白川は、すべての人類社会は必ず呪術国家の段階を経ており、中国ではそれが漢字の発生時期と一致していた、と仮定していたと思われる。つまり、人類が文明を持つようになる際には、必ず呪術的な王権が誕生し、それに伴って様々な文化が発達する。漢字はその成果の一つにすぎないのだ、という文化人類学的な仮説に立脚して、白川説は成り立っている。これはフレイザーの学説を元にしているのである。

フレイザーによれば、人類社会は未開な段階から出発する。そのとき人間は呪術を信じているが、その信仰を利用して権力を勝ち取る呪術師が現れる。彼が王となり、原初の王権が誕生する。そこから人類は文明へと向かい、やがて呪術を克服して科学や宗教の段階に進む。人類社会は呪術から科学へ、迷信から宗教へと向かう進化の中にある、という進歩史観の一種である。

ここで彼は、原初の呪術信仰の段階から王権が発生する過程で、呪術師が占いの結果を操作して自分の権力を強めようとする、と仮定している。それによって最初の王権が誕生するのである。落合氏の提出した証拠は、まさにフレイザーの仮説を立証するものであり、したがって、フレイザー説に依拠する白川説を補強する結果になっている。このように、白川説は結構手ごわい。

落合氏は、殷王が呪術の結果を操作していたということは、彼は呪術を信じておらず、合理的な思考を持っていたはずだ、と主張する。それはその通りだが、そのように呪術を利用して王権を強化しうるためには、王以外の人間は素朴に呪術を信じていたのでなければならない。そうした人々が漢字の発生に関わっていたのだとすれば、やはり、呪術と漢字を結びつける白川説の正しさは揺るがないことになる。結局、落合氏の批判は白川説を補強しただけである。

もちろん私も白川説が正しいとは思っておらず、呪術に依拠した漢字解釈は基本的に誤りだと考えている。しかし、フレイザーを背景とする白川説はいまも強靭な生命を保っており、これを突破するためには、より根本的な批判が必要である。それがどのようなものであるかは、まだ分からない。

フレイザー批判については以下のリンクを参照のこと。

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