魔と仏

妙法蓮華経譬喩品において、舎利弗は次のように述べている。

初め仏の説きたもう所を聞きて
心中大いに驚き疑いき
将に魔の仏とりて
我が心を悩まし乱すに非ずやと
・・・
世尊は実の道を説きたもうも
波旬(魔)には此の事無し
是を以て我は定めて知りぬ
是れ魔の仏と作れるには非ずと
我は欺網に堕せるが故に
是れは魔の所為と謂えり

はじめ舎利弗は法華経を聞いて驚き、これは魔の所説ではないかと疑ったが、やがてそこに実があることを理解し、それが仏説であると納得した。つまり、仏説には中身があるが、魔の所説には中身がなく、空虚なので、これによって魔と仏を見分けることができる、ということである。

では、実と虚の違いは何か。なぜ仏の教えは実であり、魔の教えは虚だと言われるのか。

仏の教えの中身とは諸悪莫作である。仏を信じるということは、仏の言葉を信じるということであり、それは諸悪莫作を信じることである。したがって、仏を信じる人は諸悪莫作を実践することになる。仏を信じることが彼の行動に影響を与え、その結果、彼の人生が変わる。ゆえに、仏の教えには中身があると言える。

一方で、魔の教えが虚だと言われるのは、そこに内容がなく、トートロジーにすぎないからである。たとえばキリスト教では、神を信じよ、と言う。では神が何を言ったかといえば、神を信じよ、と言っただけである。つまり、この神の言うことには中身がなく、トートロジーである。ある人が神を信じたとしても、そのことは彼に何の変化ももたらさないので、この教えには中身がない。ゆえに、これは魔の所説であると言える。ヤハウェは魔王波旬である。


いま法華義疏を読んでいるが、心が洗われる思いがする。自然と親鸞の和讃が思い出される。

和国の教主聖徳王
広大恩徳謝しがたし
一心に帰命したてまつり
奉賛不退ならしめよ

私もいずれ仏教教義について体系的な著述をしたいものだと思うが、如何せん余裕がない。いろいろと語るべきことはあり、伝えたいこともある。それがどれだけ伝えられるものか、確信はない。

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