論難に答える 第1回

私は仏教徒であり、仏の教説を信じている。それは因果律であり、無我であり、涅槃である。世間にはこれらを否定する人々がいるので、彼らの主張を紹介し、一つずつ論破してゆこうと思う。

自由意志

ある人は自由意志の存在を主張する。人間には何ものにも左右されずに、自分の意志で自分の行動を決定する自由がある。それを自由意志と呼ぶ。

これは因果律を否定し、無我を否定する意見である。1.原因なく判断が生じるということは因果律を否定し、2.自己の存在を認めることは無我を否定している。

1.そもそも、人間の判断は外的な要素によって左右される。その部屋に水があれば水を飲むし、麦茶があれば麦茶を飲むし、コーラがあればコーラを飲む。そこにコーラがないのにコーラを飲むことはできない。もしも人間の意志が外的要因によって左右されないのであれば、コーラがない状況でコーラを飲むことも可能でなければならない。しかしそれはありえない。ゆえに、人間の意志は外的要因によって左右される。したがって、自由ではない。

2.無我は縁起によって理解される。人間のあらゆる判断が他のものに依存して行われるということは、行為主体が存在しないことを意味する。自由な判断が存在すると思うから、自由な判断を行う主体、その判断に基づいて行為する主体の存在が仮定される。しかし実際には自由な判断は存在しえないのだから、そのような主体の存在は空想にすぎない。ここに無我が示される。

決定論、唯物論

以上の意見に対して、次のような反論が想定される。

1.もしも人間の行為が外的要因によって決定されるのであれば、人間の行為はあらかじめ決定されていることになるのではないか(決定論)。

2.その場合、人間の精神は存在せず、物体どうしの力学的な関係として、人間行動が説明されうるのではないか(唯物論)。

1.たとえ何かがあらかじめ決定されているのだとしても、何が決定されているかが分からなければ意味がない。次のような人がいたとしよう。「私は、次に起きることがすでに決定されていることを知っている。しかし、何が起きるかは知らない」。彼の発言は無意味である。ゆえに、決定論は何ものをも意味しえず、批判とはなりえない。

2.人間の判断が外的な要因によって左右されるということは、その判断が存在しないことを意味しない。外界の情報に基づいて判断を下す過程を精神と呼べばよいだけである。自由意志が存在しないことは、精神が存在しないことと同義ではない。

道徳の否定

ある人は言う。あらゆる事象は因果律に従っているだけである。であるならば、悪い行いにも善い行いにも価値はなく、何をしても自由であろう。

これは因果応報の否定である。仏は善因楽果・悪因苦果と言った。善い行いには楽という報いがあり、悪い行いには苦しみという報いがある。これが現実である。善行とは五戒を守ることであり、悪行とは五戒を破ることである。五戒とは不殺生・不偸盗・不妄語・不邪淫・不飲酒である。

不飲酒

たとえば、酒を飲むことは悪である。なぜならば、それは悪い結果をもたらすからである。酒に酔った勢いで過ちを犯し、社会的な制裁を受けた話は昔から山ほどあるし、今も新しく作り続けられている。もしも彼が酒を飲まなかったならば、間違いを犯すことはなかっただろう。しかし酒を飲み、判断力が低下していたから、過ちを犯してしまった。ゆえに、酒が失敗の原因である。

悪い行いは、それが悪い結果をもたらすから悪いと言われるのであって、行為それ自体の性質として悪いと言われるわけではない。酒を飲むことが悪であるのは、それによって悪い結果が引き起こされるためであって、酒を飲むという行為自体に悪という性質があるわけではない。このように、ある行いには必ず悪い結果が付き従うことがあり、そのような行いが悪い行いと言われる。

不邪淫

もう一つ、不邪淫を例に挙げよう。不倫は悪である。なぜならば、それは悪い結果をもたらすからである。ある人が不倫をしたならば、その人はパートナーを傷つけ、苦しめることになる。その苦しみはいずれ自分に跳ね返ってくる。

もしもあなたが他人を傷つけるならば、その人はあなたを傷つけることを避けようとしなくなる。むしろ進んであなたを傷つけようとするかもしれない。人を傷つけることは、敵を増やすことにつながる。だが、敵を増やしてよいことはない。ただ苦しみが増えるだけである。

不倫に関しては、社会的な制裁が加えられることもある。不倫をされた相手だけではなく、その親族からも恨まれ、復讐される場合もある。このように悪い結果をもたらすから、不倫は悪だと言われる。

反論

ここで、次のような反論がありうる。悪い結果があるといっても、それは必ず起きるわけではない。飲酒が過ちの原因となるのは確かだが、飲酒によって過ちを犯さない人もいるではないか、と。

そのとおりである。しかし、そこには様々な悪い結果が付随することに注意しなければならない。まず、酒は体に悪い。肝臓を悪くし、肝硬変の原因となる。また、口臭がきつくなる。また、アルコールの興奮作用によって十分に睡眠がとれなくなり、寝覚めが悪くなる。また、飲酒の習慣がつき、依存症になる恐れがある。

そもそも酒を飲んで気持ちよくなるのは、判断力が低下し、難しいことを考えられなくなるからである。したがって、酒を飲む理由そのものが、過ちを犯すリスクを増大させていることは間違いない。そのようなリスクに見合うだけの利益がないことは、冷静に考えれば分かることである。

酒のおそろしい点はここにある。酒の楽しみを知っている人は、酒についての判断力が鈍る。冷静に考えれば、飲酒によって人生を台無しにするリスクと、飲酒の楽しさが釣り合わないことは明らかである。しかし自身で酒をたしなむ人は、酒の価値を過大評価してしまう。本来それが持っている以上の価値があると思い込まされてしまうのである。それによって、酒から抜け出すことができなくなる。これが依存症であり、飲酒の習慣がある人は多かれ少なかれ依存症であると言ってよい。

悪癖から抜け出すことが難しいのは、意志の弱さもあるが、それが悪であると認識できないことが一番の原因である。ゆえに仏は善因楽果・悪因苦果と言って、善と悪をはっきり区別された。悪を悪と認識することが、苦しみから抜け出すための正道である。

因果応報はこの世の真理である。これに逆らうことは誰にもできない。それを理解し福徳を積むことで、涅槃に近づくことができる。これが仏の教えである。

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