昨今の人間社会では、この世界には正義など存在しない、それは相対的なものに過ぎない、などという言説が、まことしやかに語られている。いったい正義とは何だろうか。
たとえば、あなたには赤と黒の見分けがつくとしよう。赤色がどのようなものであり、黒色がどのようなものであるか、あなたは知っているとしよう。しかし世の中には、それを赤と呼んでいいのか、黒と呼んでいいのか、分からないような色をした物もあるだろう。そういう物を何色と呼べばいいか分からないとしても、それによって、あなたは赤と黒を知らない、ということにはならない。
赤のような黒もあるし、黒のような赤もあるが、もっと簡単な問題ならば、あなたは赤と黒をすぐに見分けることができるはずである。簡単な問題で正しい判断を下せるならば、あなたは赤と黒を知っていると言っていい。
善と悪についても同様である。たとえば、あなたが何者かに襲われて、その人を殺さなければ自分が殺されるというときに、人を殺すことは本当に悪いことだろうか、それともよいことだろうか。あるいは、あなたが三日間何も食べていなかったとして、いま一口でも何かを口にしないと死んでしまう、というときに、他人のパンを盗むことは本当に悪いことだろうか、それともよいことだろうか。
このような問題には、簡単に答えが出せるはずもない。だからといって、あなたには善と悪の区別がつかない、ということにはならない。もっと簡単な場合には、何がよいことであり、悪いことであるか、はっきりと判断できるはずである。人のものを盗むのは悪いことである。人を殺すのは悪いことである。人に嘘をつくのは悪いことである。その程度のことが分かっていれば、あなたは正義を知っていると言っていい。
判断が難しい場合は沢山あるが、簡単に判断できる場合はもっと沢山ある。だから、判断ができない場合に出くわしたからといって、自信をなくす必要はない。簡単な場合に判断ができれば十分である。
では、不正義とは何か。不正義とは、私は正義を知らない、と言うことである。たとえば、いま示したような善悪を判断しがたい例を引き合いに出して、あなたには善悪の区別がつかないのだ、と人を説得することは不可能ではない。そのように善悪の区別をなくそうとする行いが、本当の悪であり、本当の不正義である。
殺人や窃盗がどれだけ起きても、それによって社会の正義が揺らぐことはない。しかし、私は正義を知らない、という言葉は、実際に社会の正義を揺るがすのである。
したがって、自分は正義を知らない、という意見を表明することは、何人にも許されない。この点において、表現の自由は全く存在しない。それは、殺人や窃盗よりも遥かに重い罪である。そういうことを言う人間は、何度死刑にしても足りない。生きたまま舌を引っこ抜いてやるべきである。
何が正義であり、何が不正義であるかは、以上の議論で理解してもらえたと思う。