ダライ・ラマとは何か

化身ラマとチベットの国力

ダライ・ラマがチベットの国家元首となったのがいつのことなのか、私は知らない。彼は観音菩薩の化身とされ、死後は別の人間に生まれ変わる。そして高僧たちがそれを見つけ出し、次の国家元首に据える。これが化身ラマと呼ばれる、チベットの政治制度である。

思うに、この制度が意味することは、人間は生まれによって作られるのではなく、教育によって作られる、ということであろう。転生者として選ばれた少年は、平凡な子供にすぎない。それを高僧たちが付きっきりで教育することで、指導者にふさわしい人間になる。これは、国民が指導者を教育するということに近い。つまり、国民の手で指導者を作り上げるということが、チベットの転生制度の本質であろう。これは世界で最も民主的な政治制度と言える。

一方で、次のような批判もあるだろう。ダライ・ラマが観音菩薩の化身だというのは、根拠のない迷信である。チベットの政治制度はそのような迷信を助長し、人々を文明から遠ざけるものであるから、廃止したほうがよい、と。しかしまた、次のような意見もありうる。化身ラマはチベット人の信仰であり、これを否定することは彼らの人権を無視することになる、と。さて、我々はこの問題をどのように考えるべきか。

まず、彼が観音菩薩の化身であるかどうかは、確かめる方法がない。そうであるという証拠もないし、そうでないという証拠もない。つまり正しいとも誤りとも言えないので、これだけでは、それが迷信であるかどうかを判断することはできない。では、迷信と信仰の違いとは何か。

むろん、それが明らかに間違っている場合は迷信であると言える。しかし、その真偽を確定できない場合、迷信と信仰をどのように区別すればよいのか。

ここで私が提案するのは、人の役に立つものが信仰で、役に立たないものが迷信だ、という区別である。つまり、真偽が明らかでなくても、人の役に立つ信念は信仰と呼ぶべきだと考える。ダライ・ラマの場合、彼が化身であるという信仰が、人々とラマの間に信頼関係を作り出している。これがチベット人の政治的な団結を促し、国家としての力を強めてきたことは疑いえない。ゆえに、化身ラマは正しい信仰だと言える。

一方で、私は「価値形態論批判」の中で、マルクス経済学の誤りをすでに指摘している。ゆえに、マルクス主義を信じることは誤りであり、ただの迷信だと言える。

唯物論批判

マルクスの唯物論がどのようなものなのか、私はよく知らない。おそらくそれは、人間精神が物質に従属することを主張しているのだと思う。人間精神は物質的諸条件によって決定される、という考え方であろう。

しかしながら、それはありえない。なぜならば、人間精神が物質から独立して存在するものであることは、私がすでに証明しているからである。詳しくは「精神の本質」を読んでいただきたい。

もう少し説明しよう。私が主張するのは、精神は物質に還元できない、ということであり、また、科学的な方法でそれを証明することができる、ということである。科学は必ずしも唯物論を意味しない。

私が指摘するのは、物質の運動を、物質そのものに還元することはできない、ということである。物質の運動は、物質そのものの性質として記述することはできない。ゆえに、物質の運動によって人間の精神が生じるのだとすれば、それは、人間精神が物質から独立していることを意味しうる。

私は上記論文の中で、このことを、意味ニューロンの考察を通して説明している。意味ニューロンは、人間の言語能力を説明するために仮定された理論上の概念であり、私はその存在に一般的な証明を与えたつもりである。この問題については、いずれ簡単な解説を書きたいと思う。

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