乞食大燈、あるいは天皇と仏陀

むかしどこかの博物館で、白隠の絵を見たことがある。禅に関する絵が多く、厳しい坊さんだったんだな、と感じた。その中に『乞食大燈図』というのがあって、私はこれを見てはじめて大燈国師を知った。国師とは、天皇に仏法の手ほどきをするような、偉い坊さんに与えられる称号である。彼について面白い話が伝わっている。


大燈は幼いころに寺へ入れられ、修行を続けて得度をし、二十代ですでに一人前の免許を貰っていた。一人立ちした彼が何を始めたかというと、乞食である。京都の町角に立って乞食を始めた。周りの人間には自分の正体を明かさず、下町に隠れ住んで二十年間ずっと乞食を続けた。とてつもない話である。

だがあるとき、京都の市中に偉い坊さんが隠れ住んでいるらしい、という噂がどこからともなく流れてきた。そして悪いことに、それが天皇の耳に入ってしまった。天皇は興味を惹かれて、一度その坊主と話をしてみたい、と思った。酔狂である。しかし大燈は自分から隠れ住んでいるわけだから、呼んでも出てこないだろう。

そこで天皇は一計を案じた。噂によると大燈はまくわ瓜が大好物らしい。まくわ瓜というのは、私も食べたことはないのだが、おそらくメロンのような果物で、もちろんメロンほど甘くはないだろうが、甘いものが少なかった当時の人々にとっては、よだれが出るようなデザートだったのだろう。これを使っておびき出してやろう、と考えた天皇は、家来を京都の辻に立たせ、片手に瓜を持たせてこう言わせた、「足を使わないで取りに来るものがいれば、この瓜をただでやろう」。行き交う人々はみな不思議に思った。瓜はおいしいので、ただでくれるというなら欲しい。だが、足を使わないで来いとはどういうことか。

とんちである。誰もこの謎が解けなかったが、一人だけ分かっている者がいた。大燈である。彼はこう言った、「瓜を手なしにくりゃるなら、成程足なしで参ろう」。その瓜を手を使わないで渡してくれるなら、私も足を使わないで参りましょう、ということである。使者は手に瓜を持っているのだから、手を使わないで渡すことなどできるはずがない。もしもそれができるなら、私も足を使わないで行きましょう、という見事な答えだった。これで正体がばれて、大燈は内裏に連れて行かれた。

天皇というのは、だいたい周囲の人よりも高い場所に座っているものである。いまでこそ、天皇が国民と同じ目線で話すことはあたりまえになっているが、むかしはまるで違った。他の人々は絶対に、天皇よりも目線を高くしてはいけなかったのである。だから天皇と謁見する人はみな、跪いたり地面に座って話をした。

ふつうはそうする。だが大燈はふつうでなかった。彼は天皇と同じ目線で話をしようとしたのである。いままでそんな人間を見たことがなかったので、天皇は驚いてこう尋ねた「坊主というのは天皇よりも偉いのか」と。非常にストレートな質問である。どうして跪かないのか、ということだろう。それに対する大燈の答えもふるっていた「じゃあ、天皇は仏陀よりも偉いんですか」と、こんな調子である。そしてこれが分からない。

天皇は仏陀よりも偉いのか。もしも天皇が仏の教えを尊ぶのだとすると、天皇は仏陀の弟子ということになる。そうすると大燈も仏陀の弟子だから、天皇と大燈の関係は対等である。それならば、大燈が跪く理由もない。理屈の上ではそうなる。だが、どうなのか。我々は神社にも行くしお寺にも行くが、どっちが偉いのかと聞かれると、答えに困ってしまう。答えはないのかもしれないが、この答えで大燈は天皇に認められ、国師として仰がれるようになったということである。

私はこの質問を考えるたびに、気の遠くなる思いがする。天皇と仏陀はどちらが偉いのだろうか。


ここからは余談になる。この話で一番不思議なことは、一介の乞食坊主である大燈が、天皇と直接面会するということが、果たして本当にあったのだろうか、ということである。私も最初は作り話だと思っていた。だが改めて考えてみると、どうも違うかもしれない。

というのも、この話に出てくる天皇というのは、花園天皇である。この名前は知らなくても、次の代の後醍醐天皇を知らない人はいないだろう。後醍醐は建武の新政を行った人で、鎌倉幕府を倒して自分で政治を始めてしまった、日本史上稀有な天皇である。したがって、その一つ前の花園天皇の時代は、そうした社会の動乱が始まりかけていた時期にあたると言えるだろう。

また、この後醍醐の政権というのが奇妙なもので、政府の中枢にいた人々の素性が分からないのである。ふつう当時の政治といえば、家柄で決まるものであった。鎌倉幕府であれば北条や足利など、名家の有力者が政治にたずさわるのが常で、これは貴族の政治でも同様であった。だが建武の新政に参加した人々は、系譜もたどれず出身も分からないような、いわば下賤の人々が多かったのである。旅芸人や旅商人、婆娑羅、乞食坊主などが寄り集まって、後醍醐の政権を支えていた。つまり当時の天皇には、そうした下賤の人々との間に深いつながりがあったと考えられるのである。

そういうことを考えると、乞食大燈と花園天皇の話も、あながち嘘ではないのかもしれない。

タイトルとURLをコピーしました