女性の権利向上のために(2)

最近はコロナに加えて、オリンピックや女性差別の問題のせいで、ますます社会がギスギスしてきたような印象がある。女性側が男性からの差別を強調することで、かえって男女間の亀裂が深まっているようにも思われる。ここで問題を少し整理してみよう。

そもそも、男女は平等ではない。これは事実である。したがって、男女平等は誤りである。その上で、社会において女性の権利が踏みにじられているのであれば、これを改善しようと思うのは当然である。では、そのために何をすればよいか。

これを改善するために、「男女は平等だ」と唱え続けることは不合理である。口に出した言葉がそのまま現実になると考えることは、ただの呪術であり、不毛なだけだ。そうではなく、我々はまず原因を考えなければならない。女性の地位が低下したのであれば、それは何が原因となっているのか、それが分かれば、その原因を取り除けばよい。原因は過去の中にあるはずなので、我々はまず歴史を調べる必要がある。

前回の記事でも指摘したように、日本社会はもともと女性の活躍がさかんだったと言える。北条政子や持統天皇など、女性がリーダーシップを発揮する機会は多かったし、仮名文字は女性のために作られた文字だと言われている。

記録の上では、日本は昔から父系制の社会であり、父親の権力が強かったように見える。しかしそれは文書の上の話であり、社会の実態とはかなり異なることが指摘されている(網野善彦『日本の歴史をよみなおす』等参照)。過去の日本は表向きは男性社会のように見えるが、実際には、女性が活動できる範囲は相当に広かったという。ところが、現代では女性の不満が高まっていることからも分かるように、時代とともに女性の地位は低下してきたと考えられる。

一方、ヨーロッパにおいては、女性の地位は時代とともに高まってきたと感じられているようである。近代以前はキリスト教の力が強かったために、ヨーロッパの女性は抑圧されてきたが、ルターによる宗教改革や科学革命を経て、キリスト教的な倫理が忘れられ、同時に女性の権利が復活してきたわけである。

以上のことから、日本における女性の地位の変化は、ヨーロッパと異なる経過を辿ったことが分かる。ゆえに、ヨーロッパで成功した手法を、そのまま日本に適用しようとしても、上手く行かないだろう。

ヨーロッパにおいては、キリスト教の倫理が家父長制を支えていたので、宗教を否定することが女性の権利向上につながった。一方、日本にはキリスト教が存在しなかったので、そもそも女性の地位は低くなかった。それが近世以降、変化し始めたのはどうしてなのか、正確なことは分からない。おそらくヨーロッパの社会制度が日本に導入されるよりも前に、この変化は起き始めていたと考えられるのだが、いわゆる日本的な近世がどのような性格のものだったのか、詳しく調べる必要があるだろう。


だが、そうしたことよりも前に、そもそも女性の地位向上が何を意味しているのか、ということを考えてみるべきだろう。私には、政治家や会社の重役になろうとする女性が増えることが、社会の進歩であるとは思われないし、賃労働に従事する女性が増加することが、女性の地位向上であるとも思えない。むしろ、女性が男性と同じ生き方をすることが、女性の活躍であるという考え自体が、甚だしい男尊女卑であると思う。

昔から男と女は異なる役割を演じてきたのだから、それを無理に統一する必要はないだろう。それよりも、男女差別に反対するあまりに、女性が女性のことしか考えられなくなっていることが問題である。女性には自分たちのことだけでなく、社会全体のことを考えてもらいたい。

女性差別に対して女性が憤るのは当然のことだが、ではその後にどんな社会を作りたいのか、それを示さないと意味がない。ただ男を引きずり下ろしたいだけなのか、それとも、男と同じことを女性がするようになればよいのか、どうも今のままでは、不満を爆発させているようにしか見えない。

実際のところ、男社会の権力者も女には逆らえないのだから、女がこの社会で一番の実力者である。だからこそ、女性には責任ある行動が求められるのであり、この社会がどうあるべきか、そして女性に限らず、一人ひとりの人間がどうあるべきかという理想を持ってほしいと思う。

社会の進歩とは、一部の人間の福祉だけが向上することではない。そうではなく、社会全体の幸福が増進することでなければならない。自分のためだけでなく、他人のために行動できるということが、優秀な人間の条件である。そのような人間が増えることで、ようやく社会は進歩を始めるだろう。そのために女性が貢献できることは沢山あるはずである。

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